犬夜叉考察日記など
10月6日 「犬夜叉」を振り返る 〜テーマ「楓」
最初に「犬夜叉」に出会った頃、不思議なのが楓だった。
桔梗が死んだあの日、確かに桔梗は「犬夜叉にやられた」とは言っていないが、今まで大人しかった犬夜叉が村を荒らして四魂の玉を奪い、瀕死の重傷を負った桔梗に封印された。
さらに楓は犬夜叉が直接傷つけたのではないにしろ、その騒ぎの中で片目を失明した。
楓にとって犬夜叉は、ある意味敵ではなかったか。

幼い楓にとって全身火傷で動くこともできず、死を待つだけの野盗鬼蜘蛛が妖怪に体を喰らわせて蘇ったなどと、それほどの邪念、邪恋が存在するなどと想像できるはずもなし。
桔梗ですら「犬夜叉に化けた何者か」に考え及ぶ余裕はなかったのだ。

ところが50年後、かごめによって蘇った犬夜叉に対する楓や村人たちは、「あの日」より前の仕様もない悪ガキ程度の意識しかないようだった。
それがとても不思議だった。
実際PSで出たRPG「犬夜叉」では楓の村の人たちが犬夜叉に向ける台詞は「おまえのせいで桔梗さまは」みたいな憎々しげなものだった、当然だろう。
犬夜叉が楓の村と他の場所を行ったり来たりしながらいろんなエピソードをクリアして行くにつれ、その台詞も「おまえも案外いい奴だったんだな。」みたいな見直す台詞に変わっていく。

台詞を正確に覚えてはいないが、大体そんなニュアンスだったと記憶している。
楓だけは最初から原作と同じ悪ガキ扱いだったが。
その後も楓が桔梗に思いをはせたり奈落に複雑な感情を抱くことはあっても、その心情描写は希薄だった。

そこで私は結局楓はかごめと戦国、犬夜叉の50年前と現在、犬夜叉とかごめを結びつけるためだけに作られたキャラなのかと思った。
さらに犬夜叉たちに奈落=鬼蜘蛛の存在を知らせ、蘇った桔梗に桔梗が眠っていた間の出来事を知らしめる、ただそれだけのために。

けれどだんだん読み進むにつれ、描写されない楓が実は作品の中でしっかりした存在感を見せるようになった。
犬夜叉やかごめたちにとって楓の村は港であり、旅が終われば帰る場所。
同時に心の拠り所だったのではないか、そう思う。
犬夜叉でさえ、かごめや桔梗のことで悩みがあると、楓の元に行く。

何を言うわけでなくても、憎まれ口を叩くだけでもそばにいる、というより人間不信に陥っていた復活直後の犬夜叉でさえ普通に会話していた相手なのだ(怒鳴り散らしていた、と言い換えることもできるが、笑)。
野生の獣みたいに警戒感をむき出しにしていた犬夜叉が最初から気を許していた相手、それがかごめと楓だった。

さらに他作品を読んで、高橋作品の中で「老人」はいろいろな描写をされているが、とても重要な役割を担っていることに気がついた。
いくつかの例外はあるが、ほとんどの作品はいわゆる「ファミリードラマ」だ。
おじいちゃんやおばあちゃんに抱え込まれた腕の中で好き勝手に暴れる娘や息子、そして孫たち。
その確固たる基準は高橋先生のキャリアの長さによるものだろうか。

私はそんなに漫画を読む方ではないが、最近の漫画、小説、ドラマの中で「ファミリー物」と銘打っていない作品で「家族」をこれほど自然に意識させる物はあまりないような気がする。
家族より仲間、仲間より個、クールな方がかっこいいみたいな。
でなければ限りなく家族や仲間を意識させ、ひたすら熱いだけのような。
そんな中で高橋作品の魅力は、「自然な暖かさ」なのかもしれない。

そして「犬夜叉」における自然な暖かさの象徴が楓に思える。
けどやっぱり楓の感情や、楓との日常生活をもっと描いて欲しかったなと思ってしまう。
その意味でも前述したゲームで楓に始めて会った弥勒が、「弥勒です、よろしくお願いします。」と挨拶する台詞が嬉しかった。

生涯独身を通し、連れ合いも子供もいなかった楓、けれどある日楓に突然2人の孫ができる。
いつしか孫は6人に増え、最終話ではりんも加わって7人の孫(殺生丸も入れたら8人だ!)、さらに曾孫も3人、まだまだ増えそうだけど(笑)。
ペット(雲母)もできたし、時には茶飲み友達(冥加や邪見や刀々斎や)も遊びに来るだろう。
鋼牙も遊びに来るかもしれない、可愛いお嫁さんを連れて。

楓の幸せな3年後は、楓にとってはもちろん、私にとっても高橋先生からの大きなプレゼントだった。
(2008年10月6日の日記)
10月1日 「犬夜叉」を振り返る 〜テーマ「奈落」
奈落の最後の言葉
「わしはただ・・・
 桔梗の心が欲しかった・・・」

と高橋先生のインタビューでの奈落に関するコメント
「世界征服とか、私にはピンとこない。
 『恋敵をネチネチいじめたい』という方がわかりやすいじゃないですか。
 支配より破壊、『みんな死んでしまえ』というのが奈落。
 本当は、だれかに愛されたかっただけかもしれませんけど」

を読んでから「犬夜叉」を読み直してみると、奈落に対する見方(特に初期)もだいぶ変わってくる。

たとえ奈落が強くて優しいいい人で、顔も火傷などしておらず、ちょうど医者の睡骨のような状況で(犬夜叉の前に)桔梗と会っていたらどうだったろうか。
それでも桔梗に愛されることはなかったかもしれないが、ここまで醜く恋焦がれる結果にはならなかったのではないか。
火傷など負っていなくとも鬼蜘蛛と名乗る野盗は性格が元々歪んでおり、桔梗に素直な愛を向けることはできなかったに違いない。
瀕死の重傷で動けぬ体を洞穴に横たえたまま、楓に桔梗への「想い」をぶつける鬼蜘蛛の描写があるが、あれは求愛というよりむしろ欲求だった。

むしろ体を妖怪に喰わせて魂を地獄に落とし、奈落として蘇ってからの方が、桔梗への愛の純度を高めていったような印象を受ける。
そして蘇ってはみたものの、いきなり桔梗は四魂の玉を封印して死んでしまい、奈落には目的のない生だけが残される。
弥勒の祖父と戦いを繰り広げ、最後は祖父の女好きを利用して逃げ去った後は人見家を乗っ取り、若君に納まったり珊瑚の里の退治屋たちを皆殺しにしたりと犬夜叉と桔梗の復活、かごめと四魂の玉の出現とリンクする部分はあるものの、その登場は極めて遅かった。

蘇ってから四魂の玉が出現するまでの50年の間、奈落が何をしていたかが非常に気になるところだが、弥勒の祖父との因縁は風穴出現のための布石で、むしろ生きる目的を見失って放浪していたと考える方が普通な気がする。
後で利用するために七人隊とか阿毘姫とか、幾多の妖怪や人間の情報を集めていたとか、妖怪による体作りの研究とか、分身を作るために魂込めの勉強をしていたかもしれないけれど(笑)。

そんな奈落が「犬夜叉」の物語が進むに連れて、生き生きと動き始める。
人の弱い心を操って愛し合う者に殺し合わせ、信じる者を裏切らせ、共に生きるべき者を引き離す。
けれどむしろ初期奈落の方が「桔梗の心が欲しかった」の最後の台詞がすんなり当てはまるように思う。

後期になると、桔梗を通り越して「愛を知る者」全てに対する怒りや恨みや憎しみや妬みや嫉みや、そんなものばかりが目立っていた。
だから私はかごめとの「あんたは・・・本当はなにがしたかったの?」から始まる問答や、奈落の最後の台詞に戸惑ったのだと思う。
桔梗に愛されなかった俺は桔梗に愛される犬夜叉が憎かった、普通に人を愛して普通に愛される全ての人間が憎かった、だから非道な手段で人の心を壊してきたのだと訴えて欲しかった。

最後もかごめの一言で目覚めることなく死んでいったが、
「あの世でも―
 桔梗―
 おまえと同じ所には・・・
 行けそうもないな―」

なんて綺麗な台詞は不思議だった。
死んでしまったらそこには桔梗も何もない。
一度目覚めて無間地獄に落とされて、永遠に四魂の玉の中でさまよい続けることを運命付けられて、それをあえて受け止めて見せて欲しかった。
その上でかごめによる四魂の玉の消滅、本当の死を迎えて欲しかった。
それが奈落退場の王道だろう。

最終回はともかく、奈落の死の辺りはあまりに綺麗にまとまり過ぎて物足りなくあっけなく思っていたのだが、これもやはり作者が意図する以上に奈落が深みにはまり過ぎて、少年漫画の域を越えてしまったせいなのだろうか。
決してそうは思えないのだが・・・。
(2008年10月1日の日記)
9月26日 今頃ですが 「呪詛の仮面」
以前PS2で出たRPGゲーム「呪詛の仮面」、何度かプレイ日記など書いた気もするが、おもしろい反面飽きるのも早いゲームだった。
なにしろイベントの数が多く、全部見るには10回はクリアしなければならないし、ダルマに手足とまでは言わないが、立体化してむっくりした顔の犬夜叉たちがトテトテついて来るのがらしくない。
何よりもカットできない戦闘シーンにすっかり飽きて、2,3度遊んで後はほったらかしだったのが正直なところ。

ところが先日甥っ子が遊び出して、夢中になっているのをそばで見ていたら、これってとても良くできたストーリーなんじゃないかと思い始めた。
何よりも甥っ子の珊瑚への惚れっぷりが凄い(笑)。
いえ自分がゲームキャラになり切って切ない恋を体験できてしまうところが凄いゲームなのかもしれない。

男の子キャラと女の子キャラとどっちでも選べるので、たとえば女の子キャラ選択、好感度をあげるキャラは犬夜叉で。
すると休日を犬夜叉と2人だけで過ごすイベントが何度か入る。
そのうちに「私」の中に犬夜叉に対するほのかな恋心が芽生え始める。
そんな「私」をかごめもなんとなく気になる様子。

このイベントが犬夜叉と2人きりで薬草摘んだり水浴びしたりと、他愛ないんだけどとても楽しい。
原作ほどさっぱりしてもおらず、アニメほど濃くもない、ゲームの日常生活がさりげなくて、でもキャラが本当に魅力的。

けれど犬夜叉にはかごめがいる。
誰も気づかなかったかごめの不調を犬夜叉だけが気づく。
いたわる犬夜叉、嬉しそうなかごめ、そして見ていて辛い「私」はとうとう逃げ出す。
心配したかごめが追いかけて来て、「私」はかごめが本当にいい子なのを知る、けれど辛い。

再び逃げ出す「私」はやがて桔梗と出会う。
再会した仲間たちから犬夜叉と桔梗の関係を聞き、かごめもまた辛い想いをしていることを知る。
かごめにはかなわないけれど私はやっぱり犬夜叉が好き、やっとそんな自分と向き合う「私」。
その後も犬夜叉にお姫様抱っこされるなど、なんとまあと思わず赤面イベント盛り沢山(笑)。

最後の最後、唐突な別れの瞬間に犬夜叉に想いを告げるのだけど、その声はたぶん犬夜叉には届かなかった。
これが男の子選択で好感度キャラがかごめや珊瑚だと、逆に犬夜叉や弥勒に嫉妬したり、いい男っぷりと見せ付けられることになる。
これまでのゲームにもれず、名前を呼んではくれないけれど、「○○○、大丈夫か?」と自分の名前が台詞の中にちゃんとあるのも嬉しい。
(声では「大丈夫か?」だけ入って名前はカット。)

下手すれば原作を読んだりアニメを見たりするよりかごめや珊瑚のヤキモチに説得力を感じてしまうのは何故だろう。
私自身キャラのそういった部分に感情移入することはあまりないのだが、主人公が恋する過程が自分のことのように思えてくる、これは凄い。
普通の恋愛ゲームではなく、「犬夜叉」という原作が下地にあってこそだろうけど、まだ遊んでいない方には是非お勧めしたい。

もうひとつ、奈落と組んだ敵「ウツギ」の存在。
覚樹と名乗る老人(主人公が男の子だと老婆)が主人公の導き手だが、ウツギはかつて覚樹の伴侶だった。
しかしウツギは子供1人を残して若くして死んでしまう。
悲しみにくれる覚樹はウツギそっくりの人形を作り、「魂込めの術」で命を吹き込む。

蘇ったウツギもまた覚樹を愛するのだが、やがて覚樹はウツギの前で1人年老いて行くことに耐え切れなくなり、「化け物」と呼んで追い出してしまう。
ウツギは本当の人間になるために自分の子孫である主人公を戦国時代に連れてきて魂を奪い、覚樹の愛を得ようとしたのだった。
原作や「人魚」シリーズにも重なる素晴らしいストーリーだったと思う。
下手すれば私は他の映画やアニメオリジナル以上に良くできたシナリオだと思った。

惜しむらくはやはり立体化したことによるお茶目すぎるキャラと戦闘シーンの無駄に長いことか。
私の周りでもそれで飽きた人が多かった。
特に奈落と殺生丸は失笑するしかない。
逆に邪見や刀々斎はほとんど変わらないけど(笑)。

「十二国記」もそうだったが、いわゆる「ゲーマー」にはアラばかり目立つけど、シナリオさえしっかりしていればこういうゲームもいいなあと絶賛してみた次第。 特にアニメ絵部分のキャラの可愛らしさは絶品、アニメよりみんな性格良さそうに見えます(笑)。
(2008年9月26日の日記)
9月24日 死が二人を分かつまで 〜テーマ「半妖」
これも以前書いたことだけど、ワンダースワンのかごめの夢日記か戦国日記か忘れたが、そこでかごめの「100歳になっても(犬夜叉と)一緒にいられたらいいね。」 という台詞を見つけ、驚いたことがあ る。
縁側で日向ぼっこしている老夫婦がいて、それが未来の犬夜叉とかごめというわけ。
半妖とは言え、犬夜叉がこれまで生きてきた年月と、犬夜叉がこれから生きていくであろう年月を考えた場合、かごめと重なり合う時間はごくわずか、とてもじゃないが「共に100歳」になるとは思えなかった。

でも私の中で大きな疑問とならなかったのは、原作に出てくる言葉じゃなかったからというより「犬夜叉」という作品自体が「戦国御伽草子」、いわゆるファンタジーだし、そんな細かいとこまで突っ込む方が野暮と思ったからだった。
ところがその後「人魚」シリーズを読み始めてその気持ちが大きく変わった。
妖怪のモデルや登場用語の由来以外の、いわゆる作品内容に対する考察を始めるきっかけになったのもこのことだったと思う。

不老不死の主人公湧太は年を取らないという部分で犬夜叉と重なる部分がある。
(もちろん犬夜叉は純粋な人間ではないし、全く年を取らないわけではない。)
しかし湧太は心惹かれる女性にめぐり会えても相手だけが年を取り、自分が取り残される残酷さ(自分にとっても相手にとっても)を恐れるあまり、寄り添うことをせず、避けるようにして生きてきた。

結局湧太が救われるのは同じ不老不死である真魚に出会ったから。
人魚の肉、不老不死といったテーマを扱ったこちらもSF、ファンタジーでありながら、「人魚」シリーズは「犬夜叉」に比べ、ずいぶん現実のリアルさを引きずっているんだなあと驚いた。
だとすると「犬夜叉」にそういった現実のリアルさが感じられないのは、高橋先生があえて触れなかった、描かなかったからなのだろうと当時思った。

ところが後で気がついたのが、「犬夜叉」にも人魚のリアルを引きずっているヒロインがちゃんと存在していた、もちろん桔梗である。
巫女として神格化され、人を愛することも思うままにならず、四魂の玉を手にしてしまったために、さらに思い責任を背負うことになった孤高の巫女。
桔梗は犬夜叉と出会い、恋をした時に犬夜叉のために、そして何よりも自分のために四魂の玉を使い、消滅させることを提案する。

犬夜叉が四魂の玉を使って人間になり、四魂の玉が消滅したら、桔梗は四魂の玉を守るという重い責任から解放される、同時に巫女としての力も責任も放棄して、ただの人間の女となって「犬夜叉と共に生きる」ことを望む。
描写はされていないが、この時桔梗はこれからの年月のことも当然考えただろうと思う。
少なくとも私が桔梗だったら考える。

このままだったらたとえ犬夜叉と結ばれても自分だけが先に年老いて、若いままの犬夜叉の前に老婆となった姿を見られることになるだろう。
共に年老いていくのならいい。
自分だけが、その残酷に私は耐えられるだろうか、耐えられまい。
けれど四魂の玉を使えば、犬夜叉が普通の人間の男になれば2人は共に年老いて、共に死を迎えられるだろう。

回想で語られる犬夜叉と桔梗の会話。
この時の桔梗はとても綺麗だが、その言葉は一見犬夜叉のためのようでいて、実は限りなく個人的な願いの羅列だ。
けれどそれは人として当然の想いであり、願いだ。
もしも桔梗が犬夜叉を封印した日に死んでいなくて、楓と共に老婆となって蘇った犬夜叉の前に現れたら・・・。

当然のことながらかつての恋人たちの恋が再燃することはないだろう。
それもまた残酷だが現実だ。

ではかごめは?
私が不思議なのはかごめがそういった桔梗を縛るあらゆるものに囚われていないことだった。
たとえば犬夜叉を侮蔑する言葉でもある「半妖」という言葉。
地念児や紫織のエピソードでそれがいかに陰湿なものであるかが語られるが、実際犬夜叉がかごめと行動を共にしていてそういった扱いをされる場面はない。

辛うじて敵対する妖怪や殺生丸に言われる程度。
不思議な着物を着て異国の言葉(に聞こえるだろう)を話すかごめにしたところで弥勒初登場編で少しだけ不思議がられるが、それ以外はどうこう言われる場面はない。
(もちろんこれは煩雑さを避けるためでもあろうが。)

恋をすれば霊力が薄れるとか、巫女だから人間にも妖怪にも疎まれる半妖と恋をするなど社会的にも認められないとか、そういったしがらみが全くない。
かごめだけなら戦国時代の人間じゃないからそんな「常識」を知らない=こだわらないと解釈もできようが、犬夜叉とかごめが出会う人々自体が全くそんな意識なしに彼らに普通に接している現状を見ると、つくづく桔梗の哀れを感じずにいられなかった。

無理して考えれば、改心した半妖をお供に妖怪退治の行脚をしている不思議な着物を着た特別な巫女(弥勒が出てからは法師も含む)の噂が広まって、犬夜叉に対する認識が改まったとか書けそうだが、さすがにそれはないだろう(笑)。

つまりかごめ、そしてかごめに出会ってからの犬夜叉は「戦国御伽草子」な世界に包まれて、自身がそのマイナス面を受けることはない。
そしてそれが「犬夜叉」のメインの世界だった。
その中で桔梗と、そして奈落だけが「人魚」のリアルにどっぷり浸かって引きずって足掻き続けていたのだろう。

桔梗ファンの方とメールなどで話していると、ほとんどの方が桔梗の凛々しさ、毅然とした美しさに惹かれているようだった。
けれど私は桔梗の哀れさに惹かれる、桔梗が引きずっている「現実の残酷さ」に惹かれる。

桔梗には最後まで生きていて欲しかったが、キャラとしての桔梗を考えれば、桔梗はやはり途中退場するべき存在だった。
なぜなら桔梗が生きていれば、奈落に引導を渡すのは当然桔梗の役目とならざるを得ないから。
しかし「犬夜叉」の主人公は犬夜叉とかごめだ。
奈落に引導を渡すのも、四魂の玉に結末を与えるのも犬夜叉とかごめでなければならない。

ならばやはり桔梗は途中で死ななければならない。
桔梗を悼むために、高橋先生は桔梗の幸せな、そして美しい最後を描かれたけど、それでもやはり「キャラとしての」桔梗は哀れだ。
そしてだから私は「現実」を生きた桔梗が好きだった。
哀れな存在でありながら、精一杯強く厳しく切なくそして美しく生きた。
多くの桔梗ファンが惹かれるのは桔梗のそんな部分だろう。

最初の文章に戻ろう。
「犬夜叉」を読んでいる限り、犬夜叉の前で一人だけ年老いていくかごめ、それを嘆くかごめなど考えられない。
かごめは年老いることもなく、何にも捉われることなく、幸せに、輝きながら生き続けるだろう。
それがかごめが生きている「犬夜叉」の世界だから。

高橋先生は「人魚」シリーズで生と死に捉われ続けるリアルな人間の姿を描かれた。
「犬夜叉」では「人魚」シリーズと同様に生と死の問題を抱えながら、それを意識しないファンタジー世界を眩しく生きる人間の姿を描かれた。
次回作はギャグ、なのかな?ラブコメ、なのかな?順番からすれば(笑)。
でもそれを終えたら、今度は生と死の問題を抱えながら、それを越えた人間の姿を描いて欲しいと思う。

その意味では「人魚」シリーズの続編(完結編)を望みたい。
湧太は真魚と出会うことで、ある意味完結してしまっているので(物語の中では狂言回しの役割を担っている)、難しいかもしれないが。

「犬夜叉」の桔梗や奈落もそうだが、私はどうしても前向きな明るいキャラより、その逆の弱さ暗さを抱いたキャラに共感しやすいタイプのようだ。
そんな私が痛烈にひっぱたかれた気がしたのが、最近読んだ宮部みゆき著「おそろし 三島屋変調百物語事始」だった。
結末の持って行き方が中途半端で続編でも出てくれないことには納得できない心持ちなのだが、それはそれとして目から鱗の台詞が出てくる。
それについては後日書きたい。
(2008年9月24日の日記)
9月18日 まだまだ書きたいことがある 〜テーマは「高橋留美子」で(笑)
アニメで「犬夜叉」を見始めた頃、当然のことながら作者である高橋先生にも興味を持った。
虎縞ビキニのラムって女の子が登場する「うる星やつら」を描いた漫画家程度の知識はあったけど、ストーリーも知らなかったし、いつ頃発表された作品かも知らなかった。
高橋先生が何歳くらいかも知らなかったし、「うる星やつら」がどれほど人気がある作品かも知らなかった。

犬夜叉とかごめの掛け合い漫才みたいな恋模様を読み始めて、私の中で高橋先生はかごめと桔梗を足して2で割ったような性格、夢見るロマンティストなイメージが出来上がった。
ついでになんでだろ、おとなしやかな大和撫子みたいな。
さらに「めぞん一刻」を読んで響子さんがプラスされ、3で割ったイメージに変化した。
気は強いけど甘々な乙女ちっくな性格(笑)。

実際その頃宣伝用の差し障りのないコメント以外高橋先生のインタビューなど読む機会はなかったし、その手前勝手なイメージはかなり後まで引きずっていく。
「あれ?」と思ったのはサンデーを買うようになってから。
最終ページに読者からの質問に先生たちが毎週答えるコーナーがあって、意外とファンサービスな受け答えをする先生が多い中、「普通に」答える高橋先生が妙に目立っていたのだ。
好きなものは好きだけど、興味がないものは興味がない、読みようによっては身も蓋もないイメージ?
もちろん悪い意味ではなく、むしろ合理的で理性的、気持ちがいい、そんなイメージに代わって行った。

確かにメロドラマを描く上で、描く側がメロドラマに酔っていたらそれは非常に読みにくいものになる。
(小説でも映画でも、それっぽい作品は私はあまり好きではない。)
むしろ突き放して操って、そうしているうちに物語の方で勝手に動き始めたら、それは最高におもしろいものになるだろう。
なんて言ったらいいのかな、べたついた感動じゃなくて乾いた感動、乾いた、だけど豊かな感動。

そうしているうちに養老孟司氏と高橋先生の対談も読んだけど、高橋先生の内面に迫るというものではなかったように思う。
(養老氏の関心がそこになかったように思う。)
私はむしろ今回読売新聞に掲載されたインタビューを高橋先生の本音が聞けるという意味でおもしろく読んだ。

全体的な感想はすでに書いているので省略するが、最初に「えっ?」と思ったのは「(『犬夜叉』に登場する)妖怪はかなり『捏造』しました。」というコメント。
国語辞典で調べてみると「本当は無いことを、事実であるかのように作り上げること。でっちあげ。」と書いてある。
必ずしも悪い意味ではないのだろうが、「でっちあげ」という言葉からくるニュアンス、たくさんの事件(ゴッドハンドと称された人物やフジテレビで人気だったバラエテイー番組などは記憶に新しい)で「捏造」という言葉が使用されたことなどから、あまり印象のいい言葉ではない。

わざわざ「」で括ってまで使う必要はあったのか、と思った。
冗談半分ではなくあえて使われたのだとすれば、そこにどんな意味があるのかな?
なにか妖怪の生み出し方に自身の中で引っかかる部分があったのだろうか、と思った。
漫画雑誌でファン対象のインタビューではなく、高橋先生に関する知識や関心のない一般読者も読むであろうインタビューであえてこんな言葉を使った意味は?
これは残念ながらわからない。

次に「やられた!」と思ったのが「読者にはリラックスしてほしい、とにかく楽しんでほしいというのが一番の願いです。」というコメント。
こちとら「犬夜叉」に関しては底もないのに掘り返し、空の果てまで限度を越えて舞い上がり、大上段に振りかぶり、片意地張って息を切らしてなりふり構わず考察に走った身としては、犬夜叉の鼻にたどり着いた途端、指一本で弾き飛ばされた冥加気分(笑)。

基本はそうなんだろう。
漫画なんだから楽しめばいい。
けれど何もないところに何かを探したくなるのが「犬夜叉」だった。
今後も楽しい作品ならば楽しく読ませてもらうけれど、もしかしたら「犬夜叉」以上に喰らいついて離れませんよ、と突然ここで宣言したくなった。

そこで結論。
高橋先生は豊かな感性と相反する冷めた部分の両方持ち合わせている方なんだと思う。
今の私の高橋先生のイメージはファンの熱気に狂喜しない漫画家、嬉しく受け止めつつも惑わされない漫画家、だ。
だからこそ自身の作品に酔うことなく、踊らされることなく、時には強引に押し切るも、読者を納得させる技量も備えることができたのだと思う。
「何を今さら」と「うる星やつら」からのファンの方には笑われそうだが、私にとっては大きな発見、新発見だ。
それを踏まえて次回は次作品への期待を書いてみたい。

以前ある方から「えむさんの高橋先生に対する無条件の信頼がうらやましいです。」とメールを頂いたけど、私は先生にお目にかかったこともないし(笑)、それはやっぱり作品を通して得たものだ。
実際にどんな方かなんて会わない限りわからないし、それほど関心がない。
けれど作品に対して誠実ならば、それだけで十分なのでないかと私は思う。
(2008年9月18日の日記)
9月10日 やっぱり書きたいことがある 〜テーマ「輪廻転生」
果たしてかごめは桔梗の生まれ変わりだったのか。
はっきりした結論は出ないままに物語は終わってしまったが、犬夜叉の恋に限って言えば、かごめが桔梗の生まれ変わりかどうかはもう問題とはならないだろう。
犬夜叉は桔梗を桔梗として愛し、かごめをかごめとして恋した。

けれど翠子から続く巫女の変遷を考えた時に、翠子→桔梗→かごめの輪廻転生を考えた方が話としておもしろい。
原作で触れられているのはかごめが体内に桔梗が封印したはずの四魂の玉を持っていたこと、桔梗と同じ顔を持ち(漫画内ではあえて異なった描写をされているが、本当ならば楓や奈落、犬夜叉ですら見間違えるほどそっくりなはず)、巫女の霊力を持っていたことがまずあげられる。
他にも裏陶編でのかごめの中に桔梗の声が聞こえたこと、かごめの魂がかごめから桔梗に移り、桔梗が復活したことなどがあるだろう。

もうこれだけでかごめ=桔梗は間違いないと思っていいくらいのものだが、原作ではこの輪廻転生はその後触れられることがあまりなくなる。
犬夜叉の恋がややこしくなるのを避けるためか、生まれ変わり説はかごめの四魂の玉やタイムスリップ、桔梗復活に必要な要素だっただけに過ぎないのか、そこはよくわからない。

けれどもしも日暮神社のある地にかごめ、桔梗だけでなく翠子もまた生まれていたとしたらどうだろう。
平安時代から現代に至るまでこの地で生まれた女性の中で特異な霊力と四魂の玉に纏わる運命に巻き込まれたのがたまたまこの3人だったと。
翠子は珊瑚の里で死んで?いるが、もしも翠子がこの地で生まれて骨喰いの井戸を作ったのも翠子だったとしたら。
翠子は完全に死んだわけではなかったから、桔梗が死んでもその井戸は骨喰いの井戸としての力を持ち続け、かごめもまた意識するかしないかは別として、骨喰いの井戸をコントロールする。

翠子が桔梗に死魂を与え、かごめが桔梗を超えた霊力を爆発させる。
そう考えると、翠子が作品の中で時折己の意思を垣間見せながらも、ものすごく中途半端な立場にあったことが残念でならない。
四魂の玉の「意思」に四魂の玉の中にあってどう関わっていたのか。
鋼牙や宝仙鬼と四魂のかけらの関わりの中で、翠子はどうだったのか。

永遠の因果を求める四魂の玉の中の妖怪たちと共にいて、翠子の想いはどうだったのか。
もちろん想像することは簡単だけど、その辺はもう少し描写が欲しかった。
犬夜叉とかごめが主役で奈落と桔梗が陰の主役ならば、翠子と四魂の玉は裏の主役だと思うから。

あえて描かなかったというよりは、描く暇なく終わってしまったような唐突感が感じられる終わり方だったのが残念だ。
「めぞん一刻」でも響子の亡き夫総一郎は最後まで顔を出さなかったが、あれはあれで神秘的というかミステリアスというか、だからこそ裕作がかなわない重みのようなものを感じさせていたと思う。
けれど「犬夜叉」における翠子はそもそも四魂の玉を生み出した立役者、最後にちょっとだけ戦う姿が描かれるが、その後解放される姿とか、贅沢言うなら台詞のひとつは聞きたかった。

かごめの中に桔梗の魂はある、翠子の魂もある。
やすらかな眠りの中でかごめの幸せを共に味わい、共に生きている、そう信じたい。
私の中で翠子もまた、かごめや桔梗に優るとも劣らない大切な存在だから。
(2008年9月10日の日記)
9月1日 なんだか書きたいことがある 〜「犬夜叉」を振り返る
「犬夜叉」が素敵なハッピーエンドで完結して、これ以上「私の理屈」で語るは野暮、語らぬが花とずっと思ってきたけれど、しばらく時間を置いて高橋先生の原画展に行ったり原作を読み返したりしているうちに、やっぱり書きたいことがわらわら出てきた。
一番怖いのは読んで下さる方の最終話の感動を削ぐのではないかということ、これまで書いた繰り返しになるのではないかということだけど、私なりにもう一度「犬夜叉」を振り返ってみたい。

「犬夜叉」という作品は、例えれば500ピースくらいで完成予定だったジグソーパズルのようなものだったのではないかと思う。
けれどもっとパズルの数を増やして、完成までもう少し時間がかかるようにして、と頼まれて無理矢理58ピース増やすうちに形の合わない物が出てきたり、色が微妙に食い違ったり。
これではまずいと最後の最後に光り輝くスプレーをかけて、店頭に並べたような、そんな完成形。
さらにこちらもきらめく紗のベールをかぶって待ち構えていたような。

おそらく最後まで「犬夜叉」を読み通した読者は、多かれ少なかれそんな状態だったのではないかと思う。
そして確かに「犬夜叉」は、少々の破綻も圧倒的な感動で押し流してしまうような、そんな作品だった。

何度も書いたが、私はアニメが「犬夜叉」そして高橋先生との出会いだった。
もし普通にサンデーで第1話から読み始めていたら、正直ここまでのめり込んでいただろうかと思うことがある。
犬夜叉、かごめ、桔梗に出会い、少しずつ感情を重ねながら「犬夜叉」の世界にゆっくりじっくり浸っていく。
それが普通だろう。

でも私は最初アニメだけ見て「犬夜叉」っておもしろい、犬夜叉ってかっこいいって水すましみたいに「犬夜叉」の表面を泳ぎ回っていた。
思いついて原作コミック大人買いして一気読みして奈落と桔梗、蘇った2人の愛憎の泥沼に一気にはまった。
可愛い女の子とかっこいい男の子の恋模様だけなら、読んでいておもしろいけどそれ以上のものにはならない。

高橋先生おっしゃるところの「メロドラマ」の要素が私のような、少年サンデー対象世代をはるかに越えた(笑)読者を取り込んだのではないだろうか。
もちろん「もののけ」や「戦国時代」「タイムスリップ」といった要素も外せない。
もののけ好きにはたまらない、戦国好きにもたまらない、そしてSF好きにもたまらないおもしろさと突っ込みどころが満載な作品でもあった。
次回からはテーマごとに振り返ってみたい。
(2008年9月1日の日記)
7月31日 アニメ「黒い鉄砕牙」見て来ました
今朝「ズームイン!!SUPER」で「高橋留美子展」の様子が放映されていましたね。
高橋先生の声初めて聞きました。
勝平さんの犬夜叉声で「原画展なんてすげーな」も聞きたかったです。
やっぱりアニメ「犬夜叉」見たくて夕方のラッシュアワー、押し潰されそうになりながら今日も行ってきました「高橋留美子展」。
それにしても暑かった・・・。

最初に報告。
やはり「らんま1/2」と「犬夜叉」は日替わり放映でした。

 ・らんま 7月30日、8月1日、3日、5日、7日、9日、11日
 ・犬夜叉 7月31日、8月2日、4日、6日、8日、10日

で1話につき約25分。
一日中流しっぱなしになっているので、特に時間にはこだわる必要なありません。

さて「黒い鉄砕牙」ですが、私は迂闊にも完全オリジナルなお話だと思ってましたら、な、なんと(というか当然というか)原作よりの抜粋でした。
以下反転で、激しくネタバレ要注意です。

「黒い鉄砕牙」は、大体51巻あたりをアニメ化したものです。
冒頭シーンは、いきなり死神鬼が登場、華麗に消えていきました。
ただし冥道残月破に関する説明は一切なしです、「ああーっ!」とか「うわーっ!」とか叫びながら消えていくだけです。
残念ながらクレジットに声優さんの名前はなし。
誰かの2役かな?とも思いましたが、わかりませんでした。
50巻第5話「共鳴」をちょっとかすった程度です。

そして殺生丸の前に夢幻の白夜が登場します。
夢幻の白夜は殺生丸に鏡の破片を渡します(51巻第1話「妖の破片」)。
(神無と鏡の妖ちょっとだけ登場します、神無台詞はなしです。)
夢幻の白夜が出てきて喋り始めたのにはびっくりしました。
声は真殿光昭さん、弥勒と蛇骨の中間みたいなトーンの声かな?

私は「十二国記」の成笙しか覚えていませんでしたが、Wikipediaによると「らんま1/2 - 中国寝崑崙大決戦!掟やぶりの激闘編」の大白星他出演作品のものすごく多い声優さんでした。
いいとこのお坊ちゃんって感じの白夜です。
私のイメージだともう少し高い声、でしたが。

後は第6話「冥道」までの犬兄弟の死闘と共闘、そしてバラバラ奈落の犬の兄弟喧嘩みっちりねっちりじっくり観戦&ちょっかい攻撃が凄い迫力で描かれます。
奈落が白夜の眼窩に触手を突っ込むとこまで忠実です。
冥道残月破を吸収して黒く染まった鉄砕牙の美しさ、鳴り響く音楽、ここまで大げさだっけ?でもいいの!みたいな大死闘。
目がまん丸のギャラリーは相変わらずの映画顔ですが、切れ長な目の奈落と白夜、ギャグ顔の邪見と刀々斎の顔は良かったです。

犬夜叉も妖犬化して戻ってからの顔は綺麗でした。
でもなぜか殺生丸だけが最初から最後までひたすら美しく、ひたすら麗しく、なんだこの気合いの差は?と不思議なほど。
もう一度言います、さすがアニメです、原作では決して出せない戦闘の迫力と美しさ、そして音や声や音楽の豊かさです。
一言で言うなら、今回のアニメ、これが全てです。

かごめたちには冥道での死闘は見えない設定でしたが、アニメでは猛々映写機で巨大スクリーンを設置、冥道の中を逐一かごめたちに見せてくれます。
それから最後に犬夜叉が天生牙の光に導かれて斬るべき場所を見つけますが、アニメではそれに「犬夜叉!」と呼びかけるかごめの声も追加します。
どこかで見た展開です。
それからファンサービスでおすわり×2、おさわり×1が入ります。

邪見のアドリブ?や意外な琥珀の突っ込みも良かったですが、一番笑いをとっていたのは、なぜか殺生丸の「風の傷!」と「金剛槍破!」でした。
神無の鏡の破片をまとった天生牙で犬夜叉の技を奪った殺生丸、その技で犬夜叉に逆襲!のシリアス展開なのに冥道残月破はともかく風の傷とか金剛槍破とかいちいち言わなくていいんじゃない?
いえ一段とドスの効いた声で律儀に言うからおかしいのか。

もちろんアニメしか知らないファンには死神鬼とか冥道残月破とか「???」な展開でしょうが、それでもごり押しで魅せるだけの迫力とおもしろさを持った今回の「黒い鉄砕牙」でした。
終わってからそばにいた人と少し話したりしてとても楽しかったです。

きのう展示は見たので素通りして、最後のグッズコーナーも心の中で目をつぶって素通りです。
なんせきのう予算を決めていたとは言え、買いたい放題買ってしまったし、ストッパー役も今日はいないし、見れば欲しい物絶対出てくるし(涙)。
「高橋留美子ファン」に埋もれる感じが嬉しくて、毎日通いたい気分になってしまうひと時でした(笑)。
(2008年7月31日の日記)
7月30日 「高橋留美子展」に行って来ました
ブログに「とりあえず帰りに寄るつもりです」なんて書いておいて、なんでこんなに早くここにいるんだ?あたし達(笑)ってわけで、開店と同時に行って来ました、「高橋留美子展」。
銀座駅の構内のあちこちにもポスターが貼ってあって、忙しげに行きかうサラリーマンやOLもさりげなくちらっと眼を走らせてるし、中には立ち止まって写真撮る人も。
シンプルなのにインパクトあるよね、このポスター、などと松屋銀座に着く前からなんとなくうきうきモード。

エレベーターで会場の8Fまで一気に上がってしばらく進むと、出た!「ラムとパンダの巨大な看板」。
毎日新聞」や「読売新聞」によると、9時半から会場セレモニーが行われて高橋先生や山口勝平さんが出席されたとか。

入ってすぐに3〜5分くらい?のオープニング映像が始まります。
以下軽くネタバレ入るので反転で。

といっても短い物なので話も簡単。
あたるがあかねやかごめや女らんまにちょっかい出して、乱馬や犬夜叉、ラムの攻撃を受けるってそれだけなんですが、犬夜叉と乱馬が顔を合わせて「声が似てる」みたいなこと言うのがおかしいです。
さすがに響子さん&五代君のめぞん組は登場せず。
響子さんにナンパ(懐かしい言葉です)を迫るあたるに五代君激高とかあってもいいと思うんですけどね(笑)。
あたるが「メルアド教えて〜」とか言ってるのが新鮮です。

もう一度見たかったけど、人の流れに押されて最初の「うる星やつら」の部屋へ。
ここが一番人が多くて熱気も凄かった。
私は結局「犬夜叉」の最盛期(それもアニメの)しか知らないんですけど、おそらく「うる星やつら」の全盛期はそんなもんじゃなかったろうなって想像できました。
夏休みなので小中学生、親子連れが多いかと思いきや、「うる星やつら」連載当時にラムに胸ときめかしただろう世代の人が圧倒的に多い。

また、それぞれの原画の前で2人連れとかグループで来てる人は語る語る(笑)。
とにかく人波が動かないんです。
作品数も一番多かったんじゃないかな。

次は「めぞん一刻」の部屋。
こちらの呼び物は「再現された一刻館」。
響子さんの部屋は実寸でしたが、台所部分がなく、テーブルと戸棚とテレビと時計とくずかごと窓と部屋のドアと廊下、なので殺風景な印象。
小さな一刻館の全景が楽しかったです。
中野にあったという似た建物、見てみたかったです。
これらの資料は1年半の高橋留美子展が終わったら、どこかに高橋留美子記念館とか作っていつでも見れるようにして欲しいです。

私は高橋先生のカラーはこってり塗ったものよりも、パステル画のような淡い色彩の原画が好きなんですが、「めぞん一刻」の後期の原画が顔や雰囲気が一番好きでした。
途中で引き伸ばされた名場面があちこちに貼ってあって、めぞんでは酔っ払った五代君が近所迷惑顧みず、響子さんに愛の告白する場面や、怪我をした五代君と看病する響子さんの病院での寄り添うシーンとか。

続いて「らんま1/2」部屋。
天道道場の看板やお湯かけ用のやかん(っていっても普通のやかん)も飾ってあって、こちらはひたすらPちゃん探し(笑)。
そしていよいよ「犬夜叉」部屋へ。
「犬夜叉」の原画はお馴染みのものばかりですが、やはり原画で見ると雰囲気や質感が違いますね。
特に七人隊や鋼牙が懐かしかったです。
日暮神社の鳥居(犬夜叉とかごめの千社札が貼ってある)や犬夜叉の鉄砕牙のモデル?になった刀(本物ではない)など飾ってましたが、ここでの一番の目玉は、鉛筆で下書きした原稿。
他の原画はサンデー掲載の拡大版ですが、これは「高橋留美子」と「ぴよぴよ」がマーキングされた用紙に、最終話の表紙。

崖に立つ犬夜叉、かごめ、弥勒、珊瑚、そして七宝と群れ飛ぶ鳥たち(ぴよぴよと鳴き声まで聞こえてきそうです。)、それと次ページ弥勒と犬夜叉の妖怪退治の一場面。
あとは子供を産んだばかりの珊瑚に寄り添う弥勒とか。
正直言って、これ見ることができただけでも来た甲斐あったと思えます。
こういう完成する前の原稿とか、「犬夜叉」を描く際に参考にした資料とかもっと見せて欲しかったです。

何ていうのかな、私の中で原画展や新アニメ(原画展内での)自体はそんなに心浮き立つものではなかったんですよ、実は。
私が欲しいのは「物語」であって、特に最終話を読んだ後では。
実際に来てみて、原画やアニメそのものよりも(犬アニはまだ見てませんが)、ここに足を運んだ人たちの熱気というか、高橋先生に対する、その作品に対する想いがびんびん伝わってきて楽しかった。

終われば終わる作品もある。
けれど私にとって「犬夜叉」はいつまでも終わらない作品だ。
そしてここにいるたくさんの人たちにとっても「めぞん一刻」や「うる星やつら」などはいつまでも終わらない作品で、心の中に大事にしまってきたんだろうなってとっても嬉しくなりました。

他作品ではやはり人魚シリーズや「炎トリッパー」「笑う標的」などシリアス物が気になりました。
他の漫画家が描いたラムの中では北条司、青山剛昌両先生のが楽しかったです。
特に青山先生の、これまで敵キャラにお酒の名前使ってきたけど、ラムだけは使えないってコメントが楽しかったです。

いよいよアニメ部屋。
ところがここでがっかりすることが。
「犬夜叉」と「らんま1/2」のアニメが日替わり放映なのです。
両方見たければ、2日間通わなければならないわけ?

小さなスーツケースを手にした高校生らしき女の子はもう半泣き状態。
私はもう2,3回来るつもりなので問題ないけど、連れが「上映スケジュール壁に貼ってあったよ、確認したら?」と言ったのは、もう会場から出た後でした・・・。
でもアニメのらんまが終わって、またすぐにらんまが始まったので間違いないと思います。
それとも2本上映する日があるのかな?
今度確認してきます。

さてらんまのアニメですが、ここでも反転。

いつも乱馬のせいで?ひどい目に合っている八宝斉は仕返しに、乱馬に「春眠香」を嗅がせようとします。
これを嗅ぐと、春が過ぎるまで眠ってしまう羽目に。
ところが手違いで嗅いでしまったのはあかね。

実はこの春眠香、眠っていても戦えるように作られたもので、触れる人間を寝ながら攻撃。
しかも誰からも攻撃されないと、ストレスがたまり、悪夢に苦しめられてどんどん凶暴化するという恐ろしい香でした。
あかねを目覚めさせるためには「からい香?(字が不明)」をあかねに嗅がせるしかない、しかも潜在能力が100%発揮されてるあかねには正攻法では無理、口移ししか方法はない。
となればしゃしゃり出てくるのが久能蔭刀、八宝斉、五寸釘、そしてPちゃん(良牙)。

あかねを守りつつ目覚めさせようと苦闘する乱馬、そしてそんなあかねを救ったのは?ってお話です。
とにかく登場キャラが多くてあかねの家族にシャンプー、右京、天道道場の面々や学校の先生やクラスメート他。
確かに短い中にもおもしろさがきっちり詰まったラブコメです。
クレジット見逃しましたが、久能は辻谷さんでしょうね、BASARA長政っぽかったです。

あかねの悪夢はインディ・ジョーンズやランボーを意識したのかな?って感じでした。
あと「ヤッターマン」からか「100パー」なんて台詞が出てました。

最後は販売コーナー。
これでもかとばかりにグッズが並んでます。
まずはポスターと画集を買って、お菓子(おみやげ)買って、乱馬好きの甥っ子のために乱馬グッズ買って、めぞん好きのちょびのためにめぞんグッズ買って、自分のために犬夜叉グッズ買って、ずいぶん買ったつもりでしたが、周りを見ると、そこはまさに大人買いの世界(笑)。

画集3冊とかTシャツ5枚とか、カードボックスとか、大きな袋を2つも3つも持ってさっさと帰って行く人多数。
会場のそばにもブランドショップがあって、店員さんが「ここにも寄って〜」みたいな切なげな眼で見てるんですが、皆さん見向きもせずに帰って行きました。
もちろん私達も。

それから地下に寄って
・「メサージュ・ド・ローズ」の定番のバラ型ミルクチョコレートと、作品のキャラクターをプリントしたミルクチョコレートの詰め合わせ「Rumiko Takahashi チョコグラフィー」(5個入=2,100円、限 定500点)
・「BABBI(バビ)」の定番のチョコレートウエハース「ヴィエッネズィ」を「うる星やつら」「犬夜叉など4種類の限定ラベルで仕上げた「Rumiko Takahashi×BABBI アソートセット」(4個入=2,940 円)を買いました。
・「DEMEL(デメル)」のラムの角や稲妻をモチーフにしたチョコレートケーキ「ラムショコラーデントルテ」(直径13.5センチ=3,150円、各日限定10点)は売り切れでした。

私は買いませんでしたが、地下では他に
・「オートゥパティスリー」の星形のレモン風味のパート・ド・フリュイに、ジャスミン・ラム・青リンゴ・ミエル(はちみつ)味のアニマル柄マカロンを詰め合わせた「Lum マカロン」(1,365円、各日限定20点)
・「BABBI(バビ)」でもう1つラムをイメージした虎柄のポーチに、2種類の絵柄のラム限定ラベル「ヴィエッネズィ」をセットにした「Lum×BABBI アニマルポーチ」(2,940円)が売られています。
場所がわかりにくいし、店員さんもよくわからないようなので、あらかじめお店の名前を控えていった方が良いかもです。

とりあえずは週末にでもアニメ「犬夜叉」を見に行きたいと思います。
お土産(一部)」と「デパ地下 スィーツ」と「犬夜叉と響子さんのポスター」の写真です。
(2008年7月30日の日記)
6月18日 最後の感想
原作少年サンデー2008年6月18日(29号)最終話(558話)「明日」

          ☆          ☆          ☆

何度読んでも泣けてくる。

幾多の謎も、小さな不満も、きらめくハッピーエンドに包み込まれて押し流されて、今「犬夜叉」が完結した。
今度はこちらの胸にぽっかり大きな穴があいた、そんな気がしたけど、とても暖かな優しいもので満たされていく。
紆余曲折は多々あったけれど、高橋先生の描きたかったものは一貫して犬夜叉とかごめの恋だったのだと、今素直に思える。

楓の村。
寄り添う楓とりんに始まる最終話。
相変わらず怪しい手段で妖怪退治の弥勒(お供は犬夜叉)はぼったくりの真っ最中。
帰ってみれば、三年の間に弥勒と珊瑚の3人目の子供(長男)が無事出産。

上の2人は双子の女の子、まるで幼いかごめと珊瑚のよう。
これなら約束?通り20人でも30人でも産めそうだ(笑)。
幸せな夫婦、平穏な戦国時代。
けれど、そこにはかごめがいない。

四魂の玉を再びこの世界に持ち込み、そして滅するためにかごめは戦国時代にやって来た。
四魂の玉は消滅し、役目を終えたかごめは自分の世界に戻って行った。
かごめの世界にも、犬夜叉に負けず劣らずかごめを愛する家族がいる。
その想いがかごめをかごめの世界につなぎ止める。

きっちり三年間。
あれほど望んでいた現実の高校生活を終え、桔梗の年齢になったかごめが今ふたつの世界のひとつを選ぶ。
犬夜叉に会いたい。
その想いが再び骨喰いの井戸を開く。

かごめの匂いを感じ、骨喰いの井戸に走る犬夜叉、ときめく胸。
そして伸ばした手の先に、かごめがいた。

「犬夜叉 ごめんね・・・
 待っていてくれた・・・?」
「かごめ・・・
 バカ野郎・・・
 今までなにしてたんだ。」

どんなラブシーンよりもストイックな恋の描写が、想いの深さを映し出す。
この2人、本当に綺麗だ。

現代では一気に老け込んで見える祖父といたわる草太が描かれる。
笑顔で送り出しただろう母もまた、寂しさを噛みしめている頃だろう。
骨喰いの井戸は、おそらく再び塞がり、開くことはない。
二度と会うことはかなわない家族。

けれどかごめは家族への想いを越えて恋を選び、家族はかごめの恋を受け入れたのだろう。
住む世界は違っていても、絆は固く結ばれたまま。

かごめがいなかった三年の間に戦国時代も変わった。
立派な妖怪になるために、村の外に修行に出て行くことが多くなった七宝。
償いの気持ちもあるだろう、琥珀は雲母と共に妖怪退治屋として修行の旅を続けている。

りんは楓に預けられ、人里「でも」暮らしていけるように「訓練」されている、いつかどちらの世界を選ぶか決める日のために。
時折殺生丸と邪見が素敵なお土産を持ってりんの元にやって来る(買ってくるのか取ってくるのか)。

そしてかごめ。
巫女の衣装に身を包んだかごめは犬夜叉と共に生きている。
その穏やかな表情は、かつての桔梗を髣髴させる、ただ寂しさだけない。

かごめの魂と桔梗の魂はひとつに溶け合い、さらに奈落の想いまでも(おそらく)包み込んで生き続けるのだろう。
桔梗を愛した犬夜叉と、かごめに恋した犬夜叉もまたひとつに溶け合い、生きて行くのだろう。
けれど今、ここに佇むのは紛れもなく犬夜叉とかごめ、ただ2人だけ。
見慣れたセーラー服より巫女装束の方がかごめにしっくり似合って見えるのも故ないことではないだろう。
最後の描写が美しすぎて、空の彼方で微笑みながら見守っている奈落や桔梗や翠子や神楽の姿まで浮かんできたから恐ろしい(欲を言えば、最後に鋼牙にも登場して欲しかった)。

なんだか涙が止まらない。
なのに「お義兄さーん!」と呼びかけるかごめを横目で睨む殺生丸や、イヤな顔してる犬夜叉に笑った、泣きながら笑った。
みんな幸せになって欲しい、心からそう思う。

そして楓の村の桔梗の祠、かごめの時代まで受け継がれていって欲しい。
日暮神社の由来も変わるだろう。
かごめの家族は、かごめが戦国時代を幸せに生きたことを知るだろう。

「犬夜叉」が終わっても、書くことはたくさんあると思ってた。
解き明かされなかった謎や伏線や、好きだった、あるいは触れられなかったキャラやエピソードのことなど、まだまだ書き続けたいと思っていた。
けれどももう十分に満たされた、私の中でも「犬夜叉」は完結した。

「犬夜叉」に会えて良かった、本当に楽しかった。
読んだり見たりするばかりでなく、感想を書いたり考察したり調べたり、全てが楽しかった。

最初の頃は「戦国」「もののけ」「タイムスリップ」といったキーワードに惹かれてアニメを見始めたのだと思う。
原作を読むようになってからは、キャラ設定やストーリーの巧みさおもしろさにどんどん引き込まれていった。
特にタタリモッケ編や「出会った場所」のかごめの眩しさ、晴海編の頃の桔梗の情念むき出しの凄絶さには強烈に惹かれた。
私が「架空」キャラであることを越えてのめり込んだのは、この時が初めてだと思う。

やがて突き詰めて考えるあまり、原作を突き抜けてどこか別の世界に自分の「犬夜叉」を作り上げ、原作とのずれに悩んだ時期もあった。
最後の頃は全く別の「犬夜叉」を語っていたような気もするが、それでも楽しかった。

ここで「犬夜叉」を語り始めてから約6年、「犬夜叉」は私の生活の一部だったと書いても差し支えないと思う。
何を読んでも何を見ても「犬夜叉」とのつながりを見つけ出し、悦に入っていた時期もある。
ゲームやカードに夢中になり、グッズ集めが家計に響いた時期もあった(笑)。
「犬夜叉」を求めて松江、新潟、そして伊東と飛び回った。

犬夜叉バスや犬夜叉電車、犬夜叉羽子板に犬夜叉ケーキと我ながらあきれるほど夢中になった。
でも最終話を読み終えた瞬間から、全てが不思議なほど懐かしい想い出になった。

今はただ、「犬夜叉」を描いて下さった高橋先生に本当に御苦労様でしたと、本当にありがとうございましたと伝えたい。
これまで読んで下さった方々も、長い間本当にありがとうございました。
(2008年6月18日の日記)

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