池波世界をたどる道
9月16日 法恩寺
鬼平こと長谷川平蔵の青春の思い出に満ちた場所として有名な本所界隈にある法恩寺、私はJR総武線錦糸町駅北口からが行きやすい。
上京以来、かなりの数の寺社を巡り歩いたつもりだが、これまで訪れた中で一番頂いた由来書が立派だったのが今回の法恩寺。
二つ折りにしたA3サイズの厚手の光沢のある豪華版で、カラー写真が満載、「池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の登場人物である鬼平や左馬之助は法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場へ通ったということです。」と誇らしげな記述が微笑ましい。

「大屋根」とあったので、かなり大きなお寺を期待して行ったのだが、震災・戦災によって焼失したため、再建されたのが現代の姿とのことで意外と小さい。
(日本武道館をイメージして行った私が悪い、笑)。

法恩寺は太田道灌が長禄2年(1458年)に江戸城を築くに当たり、城内鎮護の祈願所として鬼門である丑寅の方角に建立されたのがおこりとのこと。
道灌ゆかりの記念碑や稲荷神社もあって楽しいが、一方で納骨堂である「妙元廟」など真新しい物が大きくて、鬼平のイメージとそぐわないのが残念だった。
この法恩寺を出て大横川親水公園を南下すれば、旧平蔵邸に設定された入江丁や公園の南端に移された時の鐘などを見ることができる・・・、のだがこの日は迷った、とにかく迷った。

1人で知らない土地へ行く時は迷うのがお約束の私だが、それにしてもひどい迷い方をしたのは古地図とパソコンからプリントした地図の方角が90度違っていたからで、浅草から両国のあたりをうろうろ歩き回ったが、おかげで予定外?だった春慶寺など見つけることもできたし、ついでに大黒屋で天丼食べたり梅園に寄ってあんみつを食べたりお土産に舟和のあんこ玉買ったりと楽しめた。
(大黒屋の天丼はタレが濃くて大好き、池波氏お勧めの中清はちょっと物足りない気がする・・・。)
帰りに夫を呼び出して両国でちゃんこ鍋でも、と思ったけれど、何故か不在(笑)でとぼとぼ帰った。

今回おもしろかったのが三ツ目通りと四ツ目通り。
なんでそんな名前が?と思ったら大横川親水公園で日向ぼっこをしていたおじいさんが「碁に関係ある」ことを教えてくれた。
碁に関係あると言われても、何がどう関係あるのか今度行ったら調べてみたい。

さて、青春時代を本所で過ごした長谷川平蔵、「本所・桜屋敷」で当時の淡い恋の思い出が過ぎた年月の残酷さ、初恋の相手と思いもかけない形で再会する。
初読したのは中学生の頃。
きっと改心したおふさと左馬之助が結ばれてハッピーエンドになるだろう、などと夢見ていた少女漫画や少年少女世界の文学全集に埋もれていた女子中学生を打ちのめしたのが、この「本所・桜屋敷」だった。

実は「唖の十蔵」はあまり印象に残っておらず、次に読んだ時まで第1話が「本所・桜屋敷」だとばかり思っていた。
それほど平蔵、左馬之助とおふさの再会が衝撃的だったのだろう。
同時に小説の中に始めて「現実の理不尽さ」を見出したのではなかったろうか。

テレビでも鬼平シリーズを何作か見たが、中でもこの「本所・桜屋敷」のおふさ役萬田久子さんは本当に綺麗だった。
原作のおふさ以上に哀しい美しさを漂わせていたように思う。
本来ならば美しくあってはならないのだろうが・・・。

★今日の写真。
大屋根と言うほど大きい気はしません。→「こちら」。
(2008年9月16日の日記)
8月5日 池波正太郎記念文庫
以前働いていた職場で、必要があってよく合羽橋や浅草橋に買い物に行った。
特に入谷駅で降りて「恐れ入谷の」鬼子母神に寄り道し、信号を渡って合羽橋道具街を冷やかしながらの買い物はいつも楽しみだった。
(仕事さぼれる?し、交通費は出るし)。

海外の旅行者が群がる食品サンプルのお店で、私も空中に浮かんだフォークに巻きつけたパスタや本物そっくりのパフェに目を丸くしたり。
まるでキスをせがむように目を閉じて口を突き出したカッパの置物に心の中で投げキッスしたり(笑)。
あれから数年たったが、今でも入谷は私のお気に入りの散歩コース。
さらに河童の手のミイラのある曹源寺を覘いてかっぱのぎーちゃんに挨拶、そして「池波正太郎記念文庫」に立ち寄るのがお約束となった。

西浅草の台東区生涯学習センター1階。
私は乗ったことがないけれど、台東区巡回バス南の北めぐりんに乗って「生涯学習センター北」で降りればすぐらしい。
建物に入ると、まず目の前に鎮座している豪華な熊手に目を惹かれる。
右に入れば台東区立中央図書館、左に入れば池波正太郎記念文庫である。

台東区にゆかりの作家は池波氏以外にも多く、中央図書館にも池波作品の他、瀬戸内寂聴、沢村貞子など資料が充実しています。
また、浅草ならではの大衆文化関連の資料も2階にどっさり。
入ってしまうとなかなか出られない図書館のひとつ(笑)。

さて、記念文庫だが、やはり一番好きなのは復元された書斎の一部。
セピア色にまとめられた中、どっしりした机や書きかけの原稿や読みかけの本や。
作家としての池波氏の匂い、そして生活人としての池波氏の匂いに包み込まれたような空間。
初めてエッセイで知った資料や写真を実際に目にした時は、身震いしてしまった。

池波氏は間違いなくここで生きておられたんだ、ここで「鬼平犯科帳」や「真田太平記」を書かれたんだといった感動が押し寄せて来る感じ。
他にも読むのが難しい?原稿や可愛い絵や年表やずらりと並んだ作品集を眺めていると、あっという間に2時間はたってしまう。
長野県上田市にある「池波正太郎真田太平記館」と提携して、そちらで発行されている資料が読めるのも楽しい。

ちょっと笑ってしまったのが池波氏のイラストを使用した栞や手ぬぐい、ブックカバーなどのグッズ販売。
ついつい私も手が出てしまったけれど、池波氏はどう思っているんだろう。
「俺の絵をこんなんに使うなよ」なんて苦笑いされていそうな気がする。

そういえばこの近く(台東区立待乳山聖天公園)に池波氏の生誕地碑が建立された。→「台東区ホームページ
今度足を伸ばしてみよう。

★今日の写真。→「記念文庫入り口」。
バーミヤンの看板の方が目立ってます(笑)。
(2008年8月5日の日記)
6月30日 塩入土手から板橋へ 〜総泉寺
千住大橋の袂から浅草側に歩き始めてすぐ左折すると、そこから汐入(塩入)土手が始まる。
古地図には「山王社」と記された日枝神社(虫歯の痛みに耐えかねて切腹した藩士清兵衛を祀る祠がある)を越えてさらに進むと、大治郎が住んでいた真崎稲荷明神社(現石浜神社)が見えてくる。
その先白鬚橋の明治通りとぶつかるあたりが、かつて総泉寺があった場所だろうか。

その近くで畑仕事をしていた百姓が住んでいた家を借りうけて、彦次郎が住んでいる。
前回も書いたが、大治郎宅とは本当に目と鼻の先だ。
さらに総泉寺は「鬼平犯科帳」にも登場する。

区役所資料室で見た資料によると、総泉寺の開基は前回行った石浜神社にもゆかりのある石浜城主千葉之介守胤。
曹洞宗の寺院で正式には妙亀山総泉寺と号す。
山号「妙亀」は梅若塚や木母寺の梅若伝説に登場する、梅若丸の母妙亀からつけられた。
妙亀は、人買いに連れ去られ、この地で非業の死を遂げた息子梅若丸を弔うために尼となり、庵を結んで寺のはじめをなしたという伝承によるのだそうだ。

その総泉寺が、なぜ板橋区に移ったかというと、大正12年の関東大震災で焼失したため。
昭和3年に板橋区小豆沢に元々あった大善寺と合寺され、昭和47年に本堂が新築された。

最寄り駅は都営三田線志村坂上。
マクドナルドの方に向かって中山道を5分くらい歩くと、右手に坂があってその上に見えてくる。
この駅周辺にはもうひとつ、都内では西ヶ原と2つだけが完全な形で残っていると言われる志村一里塚がある。
これがまた見事な榎で、暑い日など木の下で一休みしたら気持ちいいだろうなあと思ってしまう。
管理も行き届いていて、歩道がよけるように作られているのもおもしろいが、もちろん中に立ち入ることはできない。

さて坂を上って門をくぐると、「広いなあ」というのが第一印象。
最近見た都内のお寺の中ではだんとつに広い(笑)。
とにかく目を引くのは正面の本堂の石段に彫られた亀の彫刻。
工事中で囲いがされているので近づいてじっくり見られないのが残念だが、梅若丸の母妙亀にちなんでいるのか、5匹の亀が愛らしい。

あとおもしろかったのが、可愛い亀の上に七福神が彫られた玉があって、それがくるくる回るもの。
しばらくしゃがんで休みながら、何度も回して遊んだ。

さて中山道、板橋区役所に行ったついでに板橋宿(商店街?)にも寄って、その楽しさに中山道にも興味が出てきたおだが、私の記憶では「中仙道」だったような気がする。
いつから「中山道」になったのだろうか、今度調べてみたい。

★今日の写真。
板橋の総泉寺の本堂石段の「亀の彫刻」と「玉を乗 せてる亀」、何から何まで亀尽くし?
(2008年6月30日の日記)
5月30日 秋山大治郎の道場 〜真崎稲荷明神社
以前秋山小兵衛宅が設定されたあたり、鐘ヶ淵界隈を歩いた時に、真崎稲荷明神社も探したのだけど、見つけることができなかった。
それもそのはず、現在真崎稲荷明神社は石浜神社に合祀されていた。
つまり、石浜神社内に真崎稲荷明神社が共に祀られているのである。

常磐線南千住駅で降りる。
地図で見ると泪橋経由で行くのが近そうだが、北口を出て交番で聞くと、モスバーガー、LaLaテラス南千住(TSUTAYAやスーパー、レストランなどが入っている商業施設)の前を通って「とちのき通り」をまっすぐ進む方が近いと教わり、その通りに行ってみる。
きちんと整備されていて、ツツジが満開でとても綺麗。
都立汐入公園に突き当たったら右折してまっすぐ10分ほど歩くと右手に石浜神社が見えてくる。

石浜神社本殿の右側に真崎稲荷神社があるが、額束には「真先稲荷神社」となっている。
「石濱神社のしおり(有料100円)」や「石浜神社社誌(石浜図書館蔵)」によると、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が宮柱を築き、神璽を奉納したことが始まりとされる。
この宝珠は家伝の宝にて身に帯びて戦に出ると、常に先駆けの功名を得ることができ、これに謝して「真先(真っ先に武功を上げるから)明神」としたのだそうだ。

しおりの表紙に石浜神社と真崎稲荷神社の鳥居が仲良く並んでいる風景を見ることができるが、震災後の都市計画により、社殿の一部を著しく削減、1926年(大正15年)6月12日に時の所轄庁の許可の下、石浜神社に合併移転した。
ちなみに「真崎」となったのは江戸時代半ば頃で、伊豆国伊沢郡真崎村から取ったものらしい。

隅田川をはさんで石浜(真崎稲荷)神社、木母寺、白鬚神社がきれいな二等辺三角形を作っており、おはるが大治郎を小舟に乗せて、家まで送る風景が実際の感覚として浮かんでくる。
この近く、とは言えないが日枝神社のあるあたりがかつて「汐入(塩入)土手」と呼ばれ、梅安シリーズの彦次郎の家があるあたりとなる。
梅安の時代は秋山小兵衛全盛期よりかなり後に始まるが、少しだけリンクしている部分もないわけではないので、秋山小兵衛や大治郎と、梅安、彦次郎がすれ違ったこともあるかもしれない。

大治郎はともかく、好々爺の小兵衛や物静かな医者梅安、平凡な楊枝作りの彦次郎は、互いの常人にはない裏の顔に気づいたかどうか、想像するのもまた楽しい。

★今日の写真。
石浜神社本殿の向かって右側にある「真崎稲荷神社」と「額束 」。
「真先」と書いてあるのが読める。
(2008年5月30日の日記)
4月29日 清水門外の役宅
都営新宿線九段下駅4番出口を出た先にある千代田区役所は、平成19年(2007年)5月にこれまであった場所から、内堀通りをはさんで斜め向かいに移転した。
現区役所の向かいにあるのが清水門、区役所の向かって右隣に役宅があったされる。
この写真」で手前の大きな建物が区役所、奥の白い建物が法務局のある九段第2合同庁舎で、ここが役宅となる。
区役所に背を向けて清水門を撮ったのが「この写真」。

残念ながらこの日は天気が悪くてせっかくの桜も映えず、履いてた靴のヒールがぬかるみにはまって泥だらけになるという寒々しい一日だったが、おかげで?この時期たくさんいる花見客も少なく、のんびり歩き回ることができた。

実際は長谷川平蔵の目白台の屋敷がそのまま役宅になるはずだったが、江戸の中心地からあまりに遠いため、清水門外にあった「幕府御用地」を役宅と小説上の設定をしたというのはファンの間では有名な話。
目白台の屋敷は息子の辰蔵が留守を預かっている。
史実の長谷川平蔵の屋敷は現在の都営新宿線菊川駅にある(「鬼平犯科帳をたどる道」参照)。

この清水門外の役宅を中心に物語が展開していくのだが、私が参考にしている「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳、雲霧仁左衛門」の小川町あたりの古地図でも清水門の反対側に「御用屋舗」が見える。
ちなみに江戸時代初期にはこの地には近江山上藩の屋敷があり、その後幕府の管轄になって厩や馬場があったのだそうだ。

引っ越してからは皇居近辺に来ることは滅多になくなったが、やはり桜の季節は皇居のお堀に映える桜や吹き寄せられた花びらが作る桜筏を見にカメラ片手に歩き回ることは多い。
そのまま皇居を半周してもいいし(一回りはさすがにきつい、笑)、千鳥ヶ淵や北の丸公園の散策を楽しんでもいい。
がんばって飯田橋まで歩いて水上カフェでお茶を飲むのも一興。
お供はやっぱり「鬼平犯科帳」。

役宅が近いだけに、この付近は駕籠屋だの菓子屋だのといった架空の?屋敷や店がたくさん登場するが、それだけにその場所を特定するのは難しそうだ。
(上記の本でも何丁目くらいまでしか書かれていない。)
そこで取り寄せたのが成美堂出版「江戸散歩・東京散歩―切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図で歩く100の町と道 」。
「当時の」ガイドブックと言おうか、江戸時代に存在したお店の紹介本で、たとえば日本橋エリアを開くと貿易問屋の長崎屋とか三越の前身である越後屋などがどこにあってどんなお店だったのかが一目瞭然。

池波氏がたくさんの資料を駆使して作り上げた「鬼平犯科帳」の世界がこれ一冊でも網羅できるとは思っていないが、1つか2つくらいは小説と資料が一致するお店があったらいいなあと楽しみにしているところである。
(2008年4月29日の日記)
3月31日 お墓参り 〜西光寺
地下鉄銀座線田原町駅で降り、3番出口から郵便局の脇を進んで行くと、間もなく池波氏の眠る西光寺に着く。
途中でお花でも買ってと思っていたのにあまりに近く、気づいた時は手ぶらでお寺の前に立っていた。
「これが西光寺?お墓ってどこにあるの?」
お寺というより2階建ての普通のお宅のように見える建物の前でぼんやりしていたら、近所の方らしき中年の女性に「どこ探してるの?」と声をかけられた。

西光寺と答えると「これよ。」と目の前のお宅を指差し、「どこかでお花を買いたいんですけど。」と言うと「この近くに花屋はないけど、シキビなら中で売ってるよ。」と買い物かご片手にさばけた口調。
いかにも下町だよなあ、いいなあ、でもシキビって何だろう?って首を傾げながらちょうど出てきたお寺の方らしき女性に「池波正太郎さんのお墓参りをしたいんですが・・・。」と言うと、「どうぞ。」と快く建物の中に招いてくれた。

えっ?お墓参りするのになんで家の中に入るの?ってまごまごしてるとまた首を出し、「お墓参りでしょ?どうぞ。」と招く。
慌てて付いて行くと、ドアを開けたところが三和土(たたき)となっており、正面に上がり框、廊下と続いて部屋がある。
そして三和土が部屋の左側までずっと入り込んでいて、その奥にお墓があるらしい。
女性の案内で歩いて行くと、また外に出て家の裏側が墓地になっているのだった。

途中の壁に「しきび(線香一対付き)」と書いた紙が貼ってあり、その下に椿に似た肉厚の葉のついた枝がたくさん置いてある。
後で調べたら榊などと同様お供えに使う植物で「樒」と書き、「しきみ」とも言うのだそうだ。
一組買って教えられた通り池波氏のお墓に向かう。

狭い敷地にたくさん並んだ中の、ちょうど真ん中辺にひっそりと池波氏のお墓があった。
お墓には桐の紋と「先祖代々の墓」の文字が刻んである。
下の部分に横書きで「池波」と記してあることだけが目印か。
あくまでも一個人として池波氏がここに眠っているのだと思っただけで思わず背筋が伸びた。

しきびと線香を備え、手を合わせたが、何と祈ったらいいのだろう。
しんとしずまり返った墓地の中で戸惑いながら、「あの、はじめまして。先生の本が大好きで、一度お目にかかりたくて来てしまいました。」とか何とか、池波氏が聞いていたら苦笑いされそうな体たらく。
勢いづいて5分あまりも心の中で喋りまくってしまった。

誰が供えたかお墓の前には「菊水の辛口(日本酒)」の小瓶と煙草を吸いつけてから水の入った灰皿に浸したもの。
池波氏がお好きな銘柄だったのだろうか。

帰り際に少しお話を聞いた。
お墓参りに来る人は池波氏の命日あたりが一番多いが、やはり一年を通してたくさん来るそうだ。
池波正太郎記念文庫から回ってくる人が多いというが、お年寄りが多いとか。
私が帰る時にもガイドブックを手にした5、60代の男性グループとすれ違ったが、私を見送ってくれた女性の物慣れた応対に思わず立ち止まって見入ってしまった。

とにかく賑やかで楽しそう。
ほとんど1人で歩き回る私、気は楽だけど時々寂しい。
私がこんなに「書くこと」が好きなのも、子供の頃に読んだ池波小説がきっかけだったんですよって思わず割り込んでしまいたくなった(笑)。

★今日の一枚。→「池波氏のお墓
(2008年3月31日の日記)
2月29日 再び白山へ 〜円乗寺
肌寒い日曜日、「真田太平記」は舞台が東京(江戸)になることがあまりないので、再び白山に行くことにした。
滝川三九郎は後に旗本となり、芝・備前町(現港区西新橋)に屋敷を構えることになるが、その前は小石川村(白山)に住んでいた。

以前柳生五郎右衛門の仮住居を訪ねたつもりになって白山神社を見て以来、白山はなんとなく好きな街のひとつとなった。
親しみやすいけど濃厚過ぎない生活感、ほどほどの雑駁感、人や車も決して少なくはないけど、どこか緑に埋もれた感じが残っているところ。
家探しを開始した時、真っ先に訪れた夢の?マイホームの候補地も白山だった。

ところが残念なことに、その数週間前に「出没!アド街ック天国」で春日、千石と共に白山が取り上げられ、一躍人気スポットに。
どこの不動産屋さんでも、探そうにもまず物件がないとの言葉で泣く泣くあきらめた。

同様の理由で神楽坂、人形町、水天宮なども撃沈、本所吾妻橋や神保町にいい物件を見つけたものの、条件が合わず、こちらも断念(本所吾妻橋は本当に残念だった・・・)。
真夏の盛りにとにかく歩いた歩いた歩き抜いた。
ちょっとだけ火付盗賊改方の探索気分も味わった気がする(笑)。

さて白山。
前に来た時、白山神社を探して迷い歩いて、たまたま見つけたのが「八百屋お七地蔵尊」。
「へえ、こんな所にお七のお墓があるんだ。」と思ったが、実はこれはお墓ではなく、お墓はその円乗寺の奥にある。
すぐ後にマンションがあって布団やら洗濯物やらが翻っているのだが、お墓の前はしんと静まり返って人の気配もない。

どんなに賑やかな通り沿いにあっても一歩神社の鳥居をくぐれば、一歩お寺の門をくぐればそこには常に静けさがある。
ミステリー作家の内田康夫氏がそれを「気」と表現されていたのを読んだことがあるが、それは神社やお寺にあるのではなく、訪れる人の心に満ちるものなんだろうといつも思う。
宗教や信仰には関係なく。
だから私はこういった場所には一人で来るのが好きだ。

薄曇りの中、誰が供えたのか色とりどりの千羽鶴が鮮やかだ。
大火に追われたお七が逃げ込んだのが、この円乗寺。
お七は一人の男と恋に落ちる。
相手の名は佐兵衛とも吉三郎とも言われているが、「東京消防庁」の「消防雑学事典〜ぼやで身を焼く八百屋お七」には、恋に陥る相手を佐兵衛、お七に再び火事になれば佐兵衛に会えると放火を唆すならず者を吉三郎としている。

放火犯としてお七は当然処刑されたが、吉三郎も教唆犯として同様に処刑され、佐兵衛は自害しようとするも果たせず、出家して70歳まで生きたそうだ。
愛しい相手に会いたいあまり、火付けの罪まで犯してしまったお七だが、佐兵衛のその後を見れば、少しはその想いも報われたのではないかと思う。
突然降り出した雨に小走りに駆けながら、ちょっと前まで「振袖火事」の「明暦の大火」と八百屋お七の「天和の大火」をごっちゃにして振袖火事がお七の事件だと信じていたことを思い出し、心の中でお七のお墓に頭を下げた。

業火に包まれ、死に逝く瞬間、お七は何を思ったのだろうか。

★今日の一枚。→「お七のお墓
(2008年2月29日の日記)
1月24日 雉子神社 〜藤枝梅安の家
JR五反田駅で山手線を降り、桜田通りの坂を上ると右手の方に雉子神社の鳥居が見えてくる。
品川は私は滅多に来ることのない場所で、五反田駅も初めて。
けれど立ち並ぶビルに車両の列、行きかうOLやサラリーマンと、これまで訪れた幾多の駅前とさほど変わらない風景が続く。

梅安の家に関しては池波氏の「江戸切り絵図散歩」でも詳しく書かれているので楽しみにしていたのだが、鳥居をくぐって見上げた瞬間、あっけに取られてしまった。
大きなビルがあってその吹き抜けのような薄暗い場所にそれらしき本殿がある。
「雉子神社」と書かれた提灯がぶら下がった社務所があるので雉子神社であることは間違いないのだが、あまりに殺風景な風景に足が止まってしまったのだった。

社務所で頂いた由来によると「国道放射一号線(桜田通り)」の改修擴幅(幅を広げる)が3回行われ、現在のような姿になったのだそうだ。
ちなみに以前は普通に鳥居があってその奥に本殿がある神社だったが、平成7年3月から現在の姿になった。
池波氏は平成2年に亡くなっているので、この姿は見ることなかったのだろう。
水色の袴が可愛い巫女さんに聞いてみたら、鳥居の位置は変わってないとのことだったので、一安心。

丸くて太い柱に囲まれた本殿の向かって左側の屋根にはこの神社の由来である雉が一羽。
徳川三大将軍家光公がこの地に鷹狩りに来られた時、一羽の白雉がこの社地に飛び入ったのを追って社前に詣でられ、まことに奇端であると、「以後雉の宮」と称すべし」とのお言葉があって現在に至るとのこと。

昔は神社の西南方は広々t開けて青田が続き、池が散在し、芦や萩が生い茂っていたという。
そんな中に梅安の家はあったのだろう。
鳥居を背に桜田通りを眺めると反対側のあたりが梅安の家となるのだろうか。

あまりに殺風景な風景にちょっとがっかりしてしまったが、本殿の裏手が小高い丘になっていて、そこからむき出しの地面や岩がのぞいているのがむしろ新鮮だった。
そこからは上れないが、位置的に丘の上にあたる部分にやはり「殺しの四人(梅安シリーズ1巻)」梅安宅紹介部分に登場する宝塔寺の墓地がある。
天気のいいその日はお墓の販売会を行っていて、お寺の正面からではなく墓地から入ってしまった私たちを満面の笑みで迎えてくれたのには困ってしまった。

いったん桜田通りに戻り、五反田駅に少し戻ってから宝塔寺の正門に向かう。
こじんまりしたお寺だが、綺麗に手入れされた植木が抜けるような青空に映えて鮮やかだ。
突然の訪問者を迎えてくれたのは白と茶と黒の毛並みの猫。
のんびりしたしぐさで歩き回ったり座り込んであくびをしたり、人なれしていて近づいても逃げる様子もない。

さすがに撫でるところまではいかなかったが、「ここに池波さん来たのかなあ。」と話しかけると「にゃあ」と鳴いた。
「うん、来たよ。」って答えているように聞こえたのは気のせいか(笑)。

今回「雉子の宮」の絵を探して何冊かの「江戸名所図会」解説本を読んだが、残念ながら見つけることができなかった。
本来の雉子神社と梅安の位置関係はもう少し調べてみたい。

★今日の写真。
向かって左側のビルの下(丸い柱の奥)に本殿があります。→「桜田通りの反対側から見た神社
宝塔寺で出会った猫。→ 「こちら
(2008年1月24日の日記)
12月14日 神田明神
東京都内で、神田明神ほど時代小説に頻繁に登場する神社はないのではないだろうか。
江戸の人々が馴染んだ神社、江戸の人々に愛された神社はこの時代になっても、神社としては珍しく華やか賑やかな雰囲気と圧倒的な存在感を持って、訪れる者を迎えてくれる。
私ももう20回近く訪れたと思うが、いつ行ってもだらだら歩き回るだけで軽く2時間はたってしまう。

前回「御宿稲荷神社」を取り上げたが、御宿稲荷神社の御神体が一時神田明神に移された時も、確認のために駆けつけた。
「平将門」について調べていて将門が神田明神でも祀られていることを知り、将門塚から回って来たこともある。
何年前か、なんとここで「犬夜叉」のお守りが発売されて、その時もすっ飛んで来て10個も買い、保存に5個と自分が持ち歩くのが1個、後は甥っ子や友達に配って回ったこともある(笑)。
後は年配のお客様を秋葉原から神田明神に案内して、さらに男坂を降りた所にある「かに道楽」でお食事を、というコースは皇居散策と同じくらい喜んでもらえた。

そんな用事などなくても、天気のいい日、時間のある日、ダイエットが必要になった日(涙)など、大きく回り道して訪れるにはとてもいい場所にあるのが神田明神。

「剣客商売」で一番印象的なのは「天魔」の中の「約束金二十両」。
秋山大治郎に惹かれ始めた佐々木三冬が、剣術の稽古に来ているはずの大治郎に会いたさに父田沼意次邸に向かう途中、神田明神そばの茶店に走り込み、甘酒をすする。
その三冬の目に留まったのが平内太兵衛が掲げた立て札。
これをきっかけに三冬、大治郎、そして大治郎の父秋山小兵衛が愉快な物語に巻き込まれていく。

池波小説が好きといっても、時折見られる濃密な人間関係の生臭さにはついて行けない(それこそが池波小説の醍醐味、と言われそうだが・・・)私であるが、この「約束金―」に関しては、解説で常盤新平氏書くところの「春風駘蕩」とした雰囲気が顕著に現れていて、読んでいて気持ちがいい。
特に老いた剣客太兵衛と若い娘おもよの性格や心の交流がほのぼのしていて、それでいておかしみがあって、何度読んでも読み返したくなる。

その三冬が訪れた「明神社・大鳥居を入った左側の茶店」は「天野屋」さん。
見た目は普通のお土産物屋さんだが、入って左側、喫茶部の方に向かうとひなびた感じで薄暗い。
黒光りする柱やみっしり貼られた千社札、レトロな置物など、「天野屋」にお客さんが何を求めて訪れるのか知り尽くした感じ、でも自然。
うだるような暑さに汗を拭きながら、あるいはこごえた手をすり合わせながら入ってくる参拝客が腰を下ろしてほっと一息つく気分が間違いなく味わえる。

隣の売店で売っているたくあんの匂いがきつい。
これは味が濃くてとてもおいしいのだが、買って電車に乗るにはとても勇気がいる(笑)。
甘酒に添えられるなめ味噌もおいしくて、友達とおしゃべりしたり、一人で店の前を通る人たちをぼんやり眺めながら甘酒をすすっていると、スーツを着た現代の「旅人」の姿が見えてくる。

天野屋さんの隅っこで「天魔」を読みながらふと目をあげたら、そこに私と同じ名前の千社札が貼ってあった。
中年女性の10人ほどのグループが隣りの席に陣取り、おしゃべりに夢中になっていたが、その会話の内容から、その人たちが、やはり池波小説に登場する史跡を巡って歩いているのだと知ったこともある。
ちなみに私はもう少し神社寄りにある三河屋さんのさっぱりした甘酒も好きだ。
麹の匂いが苦手な方はこっちの方が飲みやすいかも。

大きな鳥居を一歩くぐれば、そこは間違いなく江戸の世界だ。
歌川広重の「江戸百景 神田明神曙之景」の真似をして、裏側の銭形平次のお墓がある辺りからあたりを見渡すと、立ち並んだビルの中にもやっぱり江戸の匂いがある。
いつも思うことだが、失った風景や新たにできた余計な物を嘆くよりも、今の風景からかつてを偲ばせるものを探す醍醐味、それが当時を知らない私の世代の特権である。
帰りは天野屋さんの方からお茶の水経由で帰ってもいいし、男坂を降りて秋葉原に寄ってもいい。
暑くもなく、陽射しも強すぎない気持ちのいい日の午後なら湯島聖堂に寄って読みかけの「剣客商売」を読んでしまってもいい。

でもそうすると、思いがけず時間を食って慌てふためいて夕方ラッシュの満員電車に飛び乗り、スーパーの買い物袋を両手に全力疾走する羽目になる。

★今日の一枚。
神田明神にはこんな物も売っています(笑)。→「犬夜叉お守り
(2007年12月14日の日記)
11月8日 御宿稲荷神社 〜内神田一丁目
御宿稲荷神社、楽しい縁のある神社である。
3年ほど前、サイトのトップページに飾る素材を探していて、TSUKURUさんの 「素材散策」で赤い鳥居の素敵な写真を見つけ、お借りしたことがある。
その後、TSUKURUさんにいろいろお話を聞いて、その鳥居が東京内神田の御宿稲荷神社であることを知った。
当時は御宿稲荷神社が「鬼平犯科帳」に登場することも気づいていなかったが、カメラを片手に見に出かけ、綺麗な色とおもちゃ箱のような可愛い神社にすっかり魅せられてしまったのだった(「鳥居の色は秋の色」参照)。
いつも参考にしている「江戸切絵図にひろがる鬼平犯科帳(人文社)」でも取り上げていないこの神社が登場するのが「鬼平犯科帳」22巻特別長編「迷路」である。

 おまさは、この日の四ツ半(午前十一時)ごろに、神田・三河町一丁目の蕎麦屋〔松露庵〕へ入り、急いで腹ごしらえをした。
 それから二丁目の御宿(みしく)稲荷の境内へおもむいた。
此処で、それとなく、役宅から出て来た長谷川平蔵と落ち合うことになっている。
 間もなく、平蔵があらわれ、おまさの姿を笠の内からみとめるや、声もかけずに境内を通りぬけて行った。
 その後から、おまさも境内を出た。

引用文だと、なんとなく広い境内があって、その中を平蔵とおまさがさりげなくすれ違うようなイメージがあるのだが、実際はこの神社、三方を幅1メートル、奥行き2メートルくらいに囲われていてとても狭い。
本殿や灯篭、稲荷狐の像や手水鉢をのぞけば、歩けるスペースは畳一畳分くらいか。
ここで平蔵とおまさが落ち合ったとすれば、さりげないどころか、逢引みたいで限りなく怪しい(笑)。
もちろん当時は周りがこんなに細かく囲われていたわけでなくて、あたりは木々が立ち並び、神社の境内もずっと広かったのかもしれないけれど。

ところがこの神社が昨年9月に壊されてしまったのである。
TSUKURUさんからメールを頂いて慌てて見に行ったが、そこに神社は(当然)影も形もなく、唖然としてしまった。
特に赤い鳥居の前にせり出していたみごとな梅や、綺麗な花を咲かせていた山茶花の木もあっけなく切り倒されていたのは、とても寂しかった。

近くの尾嶋公園にいたお年寄りに御宿稲荷神社の事を聞いてみたら、神社は神田明神に移されたと言う。
しかもいつかまた戻ってくるとか。
どうやらすぐそばのビルの工事が関係しているらしいが、その足ですぐに神田明神に向かう。
たくさんの参拝客に混じってうろうろしていたら、向こうから神職の方がやってくるのが見えた。
慌てて駆け寄る。

その方のお話によれば、御神体は神田明神に暫時お祀りしているけれど、いずれは前の場所にお戻りになりますとのこと。
一安心して(甘酒を飲んで)帰ったっけ。

天正18年関東に移封になった徳川家康が一泊した屋敷にあった神祠をお祀りしたのが始まりと言われ、昭和8年に今の姿となった御宿稲荷神社。
私が神社について話を聞いたお年寄りは「みしゅくいなりじんじゃ」と言っても話が通じず、「ここにあった神社です。」と言ったら、「ああ、おんやどさんか。」と頷いた。
この辺ではその名前で親しまれているのだろうか。

その神社も今年(平成19年)5月に今までと全く同じ形で完成したと、やはりTSUKURUさんからメールを頂き、その後の引越し騒ぎに取り紛れてはいたものの、先日やっと見に行った。
最初に感じた違和感、鳥居や本殿の色が違う・・・。
ちょうど最近民営化された郵便局、今までの赤からオレンジに変わったように、あれほど顕著じゃないけれど、どこか朱色がかったような・・・。
しかもみっちりセメントで固めて、なんだか違う、何かが違う。

前と同じように小さいながらも梅、山茶花、ツツジを植え直してあったが、梅はなんだか病気のようだ。
しかも隣りのビルの工事の人が本殿に上って仕事してるし。
それでもまた長い年月がたって梅も山茶花も成長してって、やがて古木と呼ばれるようになった頃になってもビルの谷間にひっそりと埋もれて、この神社は立ち続けるのだろうか。
かつて家康が宿泊し、平蔵とおまさがつなぎをつけたこの場所に、参拝に、あるいは見学に訪れる人々によってこの真新しい神社に自然な風合いがついていくのだろうか。

御宿稲荷神社は池波小説がらみの場所の中でも一番愛着があり、毎年梅を見に訪れたい場所でもある。

★今日の写真。
新しくなった 「御宿稲荷神社」と神社境内に陣取る「お狐さん」。
以前と同じように神田の街を見守り続けている。

          ☆          ☆          ☆ 

宝の小箱」で「素材散策」のTSUKURUさんから頂いた以前の御宿稲荷神社の素晴らしい写真を見ることができます。
(2007年11月8日の日記)

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