| 6月16日 田沼屋敷とコガネムシ |
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神田橋を挟んで外側には田中屋久兵衛請負宿(梅安)があり、内側には時の老中田沼主殿意次の上屋敷(剣客)があった。 今はむしろ大手町と言った方がいいか、相変わらず行きかう人や車が賑やかで、不思議なコガネムシが日の光を浴びて燦然と輝いていた(笑)。 下の説明によると 「この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。」 とあるが、豊かさ=お金持ち=コガネムシとイメージしたものか(しかも金色)。 何度来ても強烈なインパクトのある像だ。 さて田沼意次。 私が池波作品に惹かれるのは、長谷川平蔵や秋山小兵衛など主役の人物は当然として、悪党や小心者や脇役や、そういった作品に登場する全ての人々の性格描写の豊かさだった。 その筆頭が「剣客商売」では田沼意次。 田沼意次を知ったのがそもそも「剣客商売」だったから、その後別の小説で田沼意次を読んでその魅力のなさにがっかりしたことを覚えている。 時代小説にしろ歴史小説にしろ、他の作家の作品を全て「さっぱりし過ぎて物足りない」と思ってしまったのだから、初読の池波小説は強烈だった。 田沼意次を私腹を肥やした悪党とせず、清濁併せ呑む人物として取り上げ、だからこそできた政を描いていく。 歴史を大きく変えることはせず、歴史上の人物のし遂げたことを越えることもなく、けれど彼らに会って来たかのような生々しさを伝え、架空の人物を実在するかのように練り上げるその力量には惚れ込んだ。 そんな私が一番好きなのが「真田太平記」。 中学生の時に始めて読んだ池波作品ということもあるが、お江や向井佐平次など実在の人物で、忍びの組織などちゃんと資料が残っていてそれを元に書いているのだと信じていた。 大人になって何度も読み返すうちに、一番印象に残る人物が幸村やお江から平岡頼勝に変わった。 関ヶ原の勝敗を決したと言われる小早川秀秋の家老。 西につくか東につくか、眼下の戦場を見守りながらなかなか結論を出すことができずにいるとするか、結論を出さずにいるとするかで頼勝の描写も変わってくる。 池波氏は 「この期におよび、冷静に、ふてぶてしく東西両軍の死者や監視人をあやつる平岡頼勝が、傍目には、いかにも遠謀深慮に長けているかのように見える。」 と書く。 けれど 「その、あまりにも露骨な駆け引きが目の前で演じられているのを見て、『何という愚か者であろうか・・・・・・』奥平貞治は呆れ果てたという。」 「自分の一身に責任(せめ)を負うて、(かならず、主家をまもり通してみせる)と、平岡頼勝は、これまで、のらりくらりと敵味方をあざむいてきた自分の駆け引きに、『酔っていた・・・・・・』のである。」 そんな平岡頼勝は 「傍目には、ふてぶてしく見えはしても、平岡頼勝にしてみれば苦悩に心をさいなまれていたにちがいない。」 となる。 真田幸村のように死に臨んでなお悠々たる態度を崩すことのない人物に比べ、頼勝の動揺や苦悩や優柔不断はあまりに身近で(本当は身近でもなんでもないのだが)、忘れ難い人物となった。 悪党は悪党なりに、小心者は小心者なりに魅力的で、それが豊かなストーリーと共に描かれていくのだから何度読んでもやめられない。 田沼意次もまたしかり。 黄金色のコガネムシと相対しながら、もしかしたら田沼屋敷近くにこの黄金コガネムシがあるのもなにやら意味がありそうな気がした一日だった。 ★今日の写真。 「コガネムシ」。 「千代田区七不思議」があったら是非入れたい不思議なフォルム。 (2009年6月16日の日記) |
| 4月11日 鬼平旧邸と本因坊 |
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長谷川平蔵が青春時代を過ごした地をを探し、両国から錦糸町に向かって歩いていて見つけた「三ツ目通り」の標識をおもしろいと思った。 三ツ目通りを京葉道路方向にまっすぐ歩くと堅川にかかる「さんのはし」と書かれた橋に出る。 これが「本所桜屋敷」に出てくる「三ツ目橋」のことで、平蔵の旧邸があった場所である。 若き日の平蔵はここから三ツ目通りを通り、法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場に通った。 さて三ツ目通りである。 ネットで調べてみたら、かつて本因坊がここに住んでいたことにちなんで一ツ目通りから五ツ目通りと名づけられたのが定説となっているようだ。 根拠となる資料が欲しいなと思い、調べてみた。 参考にしたのは岸井 良衛 著「江戸・町づくし稿」と「墨田区史」。 隅田川近辺は元禄より新開発した土地で、埋め立てにより「江戸」を広げていったのだそうだ。 そういえば両国の江戸東京博物館のそばに昔海だった名残を見たことがあるような気がする。 三ツ目橋がかかっていた竪川は万治2年(1659年)に掘割されたもので、「本所桜屋敷」にも少しだけ触れられている。 掘割とは排水や土を盛り上げるために作られた運河のような川、という意味でいいのだろうか。 江戸城から見て縦が竪川となり、江戸城から見て1つ目の橋が一ツ目橋、2つ目が二ツ目橋、3つ目の橋が三ツ目橋と呼ばれたとある。 本因坊が家康に呼ばれて江戸に来たのは慶長8年(1603年)。 詳しい資料を見つけることができなかったが、本因坊が江戸に来て約50年後竪川近辺が開拓され、本因坊が「移った」ことになるのだろうか。 これだけでは三ツ目通りが本因坊にちなんで(囲碁用語にちなんで)つけられたのか、江戸城からの順番にちなんでつけられたのかわからない。 なにしろ私は囲碁に関しては全く知識も興味もなくて、内田康夫著「本因坊殺人事件」でほんのわずか知っただけなので、恥ずかしいことだがそれまで本因坊とは個人名だと思っていた・・・。 この三ツ目通りと本因坊の関係についてはもう少し調べてみたい。 (両国公園のそばに屋敷跡があるそうだが、今回は見つけることができなかった。) 個人的には本因坊が住むのなら囲碁用語を地名にしようとした方が粋な気がするのだが(笑)。 この秋葉原から浅草橋、両国、錦糸町、亀戸にかけての総武線に沿った通りは、史跡も多く、歩いていてとても楽しい場所だ。 特に江戸東京博物館は何度行っても飽きることがない。 平蔵旧邸のそばには時の鐘があり、博物館にも展示されている。 こんな大きな鐘が毎日鳴っていたらさぞうるさかっただろうと始めて見た時は思わず笑ってしまった。 ★今日の写真。「さんのはし」。 この近くに平蔵の旧邸があります。 (2009年4月11日の日記) |
| 3月4日 味わいだけでも 〜イノダのコーヒ |
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私はグルメガイド片手に食べ歩く方じゃないし、コーヒーは好きだが専門店のコーヒーも家のインスタントもおいしく飲めちゃう味音痴なので特にこだわりはない。 にもかかわらず、去年の秋に池袋西武で開催されていた京都名匠会で、イノダの暖簾を見つけた瞬間イートインコーナーに飛び込んだのは、やはり池波氏の影響だろう。 お昼ちょっと前だったので早速コーヒー(本当はコーヒ)とサンドイッチを注文する。 デパートの催事場だけにテーブルや椅子など京都の雰囲気は望むべくもないけれど、周りを見渡すと品の良い老夫婦や、テーブルに肘をついて池波氏のエッセイ「むかしの味(この本で池波氏はイノダを絶賛している!)」に読みふける若い女性、2人連れの中年男性など、見るからに池波氏の雰囲気を感じさせるお客さんが多い。 そして運ばれてきたサンドイッチの大きさには絶句してしまった。 トーストしたパンに「ハムときゅうり」「トマトとベーコン」「チキン」の3段重ね。 しかも上には厚めに切ったあっつあつのベーコンが2枚乗っかっている。 どう見ても1人で食べる大きさではない。 これが池波氏言うところの「男が食べるサンドイッチ」なのか、大きさと量のことだったのか・・・。 馬鹿なことを考えながら、かぶりつく、おいしい。 実は私、パン屋さんやコンビにでもサンドイッチはあまり買わない。 生のパンが野菜などで湿った感じがあまり好きではないからだが、こんがり焼けたパンがとにかくおいしい。 さらに油の乗っているベーコンとチキンの味付けが最高!なのだけどチキンに取りかかる頃は、もうおなかがきつくて大変だった。 残すにはあまりに勿体なくて何が何でも食べたけど、隣りで老夫婦が持ち帰りを頼み、あっさり了承されていた。 なんだ、持ち帰りOKだったのかとがっかり。 今意地で食べなくても、持ち帰ってまたおなかがすいた時食べた方がおいしく食べれたのに・・・。 そしてコーヒー。 てっきり砂糖とミルクがあらかじめ入っているのだと思っていたら、今ではもう違うのか、選んだコーヒーのせいなのかブラックで砂糖とミルクを添えたものだった。 コーヒーはブラック派の私、自信を持って甘くする特別のコーヒーの味を楽しみにしていたのでこれもがっかり、ブラックのまま飲んだ、もちろんおいしい。 帰ってから「イノダのサイト」を調べてみたら、東京大丸にも支店があるのだった。 他のサンドイッチやコーヒーも試してみたい。 ★今日の写真。 「サンドイッチとコーヒ」おいしかったけど大きくて食べるのが大変でした・・・。 (2009年3月4日の日記) |
| 1月21日 笹井丹之助の屋敷 〜佐竹稲荷神社 |
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加藤清正を毒殺した片山梅春が笹井丹之助と名を変え、住んでいたのが内神田の屋敷。 清正を心底慕いながらも忍びとして清正を殺さざるを得なかった梅春。 しかしその記憶は後々まで梅春を苦しめる。 「真田太平記」も最後に近づき、様々な登場人物にそれぞれの決着が与えられるが、梅春の死に様、そしてその死にお江と慶春が与えた結末は読んでいてとても切なかった。 その屋敷だが、神田橋門外に設定されている。 神田橋は「藤枝梅安たどる道」の「田中屋久兵衛請負宿」で書いてしまっているので、今回は「内神田」の中から佐竹稲荷神社に行ってみた。 神田は私にとって縁がありそうでない街。 神田明神に行くなら秋葉原だし、古本屋さんを探すなら神保町。 せいぜい中央線で東京駅に行く時通るくらいで降りたこともほとんどない。 南口を出て雑踏の中に神社を探し始める。 見つからない・・・。 地図をプリントして来てそれを見ながら3丁目界隈をうろうろしているのにどうしても見つからない。 運良く通りがかったお巡りさんが連れて行ってくれたが、そこは何度も通った場所だった。 どうして気づかなかったかと言うと「鳥居が赤くなかったから」。 稲荷神社といえば赤鳥居(そうと決まっていないことは知っていたが)とそればかり探していたから見つけることができなかったのだ。 ここから笹井丹之助の屋敷のある神田橋までもけっこう距離がありそうだ。 今回はちょっと地図を読み違えたかな?と思いつつ神社を覗き込んだが、とても小さな神社で実際目立たない。 名前の通りここは秋田佐竹氏の上屋敷のあった場所。 神社にも「扇に月丸」の家紋を染めた布がかけてあり、神社より目立っている。 この神社が縁で秋田県湯沢市と交流があり、湯沢市で七夕の時期行われる「七夕絵灯篭祭り」と同様の絵灯篭が西口商店街に飾られるそうである。 今度来てみようと思った。 ★千代田区内神田3−10 ★今日の写真。「佐竹稲荷神社」。 (2009年1月21日の日記) |
| 12月4日 料亭井筒 〜橋場不動院 |
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橋場不動院のある界隈は、今梅安の料亭井筒があってもおかしくない雰囲気を持った土地柄である。 以前石浜神社(真崎稲荷)を探して南千住に降りた時はけやき通りを通ったが、今回は反対側、泪橋経由で行ってみることにした。 泪橋からまっすぐ隅田川に出るまで歩いて白鬚橋に着いたら左に曲がれば石浜神社、右に曲がれば不動院があるはずだった、がお約束のように道がわからなくなった。 ところがうろうろ歩いているうちに、いきなり目の前に「小塚原回向院」の看板が。 ここがあの・・・?と一瞬どきりとしたが、陽もまだ明るいし(笑)、とおずおず足を踏み入れた。 ところがお墓が一般のお墓がある場所と処刑された罪人のお墓がある場所が塀で区切られていたのに間違って一般のお墓が並んでいる方に入ってしまった。 うわあ、たくさんあるなあとあたりをゆっくり見回し、何組かのお参りの方がいらしたので写真を撮ることもなく出てきた。 そこで間違ったことに気づいたわけ。 で、今度はちゃんと入り直したわけだが、予想したようなおどろおどろしい雰囲気などあるわけもなく、ただ橋本左内、吉田松陰、高橋お伝、鼠小僧次郎吉などのお墓がどれかを示す案内だけがここが処刑場後であることを示している。 こちらも一通り見てから道に戻り、歩き出したのだが、何気なく右を見た途端、ぶわっと鳥肌立った。 首切り地蔵。 燦々たる日の光を受けながら、逆に日光を背負った姿は暗くて見えない、ただ黒くて大きな怖い者が鎮座している。 一瞬だけどとても怖かった。 ちょっと振り返ればそこはひっきりなしの車や電車の喧騒、人の賑わい。 なのにそこだけがまるで異質な空間。 でもこの鳥肌は、この地に残る罪びとの怨念でもなんでもなく、ただこの地がどういう場所かを知っている私の「知識」が立てたものだろう。 宮部みゆきさんの「平成お徒歩日記」でもこの首切り地蔵のことが書かれていたが、日中とは言え近寄ったり写真撮ったりする度胸はなかった。 意外と私、臆病者だ。 そんな寄り道してからやっとたどり着いた不動院。 前に石浜神社社史を読みに行った石浜図書館のすぐそばだったことに行ってから気づく(笑)。 天台宗橋不動院。 ひなびた感じの建物に色鮮やかな幟、そして冴える緑。 戦災を逃れて生き続けてきた場所はどこかセピア色をしていて、それでいてたくましい。 最近は新築されたお寺や改築された神社を見ることが多かったせいか、ただそこにいるだけで和んでしまいそうな、そんな愛らしい雰囲気だった。 寂昇上人が開創されたというこの不動院、石浜神社と並んで浅草七福神のひとつなのだそうだ。 石浜神社は寿老人で橋場不動院は布袋尊。 今年は浅草七福神巡りをしてみようかな?と思いながら帰途に着いた。 帰りは隅田川に沿ってけやき通りまで歩いてみる。 ススキの向こうに首都高が見える。 何かあったのか渋滞中。 墨堤から見下ろす一般道路もせわしなく車が行き来している。 その間を川と一緒にのんびりのんびり歩いていく、気持ちいい。 左手に石浜神社(真崎稲荷)が見えてくる、後に大きな東京ガスの丸いタンクを従えて。 「先日はお世話様でした」 遠くから軽く会釈してみたりする。 なんだか気持ち良くて、とてつもなく気持ち良くて、このまま隅田川に沿ってどこまでもどこまでも歩いて行きたくなった。 このまま言問橋を越えて両国橋も越えて吾妻橋も厩橋も越えて神田川と合流して、さらに歩いて勝鬨橋まで行けるかな? 海まで歩いて行けるかな? そんなことを考えながら足はきっちりけやき通りで左折して、迷いなく南千住の駅に向かうのだった。 そんな自分が情けない(笑)。 ★橋場不動院 東京都台東区橋場2丁目14−19 ★今日の写真。 「色鮮やかな橋場不動院の風景」。 (2008年12月4日の日記) |
| 10月25日 円光寺 〜根岸の寮 |
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佐々木三冬がとても好きだ。 それも男装して剣術に打ち込み、片意地張って生きていた頃の三冬。 「父が・・・・・・父が、もっと別のお人でしたら・・・・・・」と秋山小兵衛に訴える三冬。 老練な剣士秋山小兵衛に惹かれながらも小兵衛とおはるの関係に気がつかない三冬。 そして知らず知らずのうちに小兵衛の息子大治郎に惹かれ始める三冬。 ここまでか。 大治郎の妻となってしっとりした女性の魅力を身につける三冬も好もしいけれど、やはり私はそこに至るまでの煌く凛々しい三冬が好きだ。 その三冬が父、田沼意次の元を飛び出して住み着いたのが、宝鏡山円光寺の南側根岸の寮。 JR鶯谷駅北口を出て根岸小学校の横を通り、細い道に入って行く。 初めての場所に行く時は迷うのがお約束の私だが、今回ばかりは迷った先に円光寺の門があってかえってびっくり。 わかりにくい場所ではないが、見つ出すにはやはり地図が必要だ。 ところが正門が閉まっていてなんとなく入りにくい雰囲気。 「お寺にも休寺日ってあるのかな?」なんて馬鹿なこと考えながらうろうろしていたら、地元の方らしい女性が脇の通用門のような扉を開けて普通に入って行く。 私もおそるおそるその後に続いたが、中に踏み込んだ瞬間「緑に埋もれた四阿」という言葉が頭に浮かんだ。 お寺なのだから四阿も何もあったものではないのだが、大げさに言えばお寺の屋根しか見えないほど木や花で埋め尽くされて、それらが雨上がりの陽射しを受けて色鮮やかに輝いているのだ。 真っ赤な彼岸花や名前のわからない青や黄色の花には黒や黄色のアゲハが戯れ、しっとり湿った空気が決して広いとは言えない閉ざされた空間に充満してむせ返るよう。 ふと子供の頃読んだ「秘密の花園」を思い出した。 何故か藤棚が2つか3つ、駐車スペースらしいコンクリートには大きな藤の紋が描かれ、可愛い石のお地蔵さんや動物があちこちに鎮座。 「ああ、ここ好きだあ・・・。」一人溜息をつきながら歩き回る。 ご住職らしき白の単姿の痩せぎすのお年寄りがいらしたのでお話を聞いてみた。 始めに「このお寺の由来書みたいなのありますか?」と聞くと、「そんな大層なもん、ありませんがな。」と大きく口を開けて笑われた。 「呵呵と笑う」ってよく時代小説に出てくるけど、こんな感じの笑い方なのかな? ダイナミックではないけれどあけっぴろげで気持ちが良い。 もうひとつ、「こちらにも藤の花があるようですが、これにも何かいわれがあるのでしょうか?」と質問。 これは私の完全な勉強不足で円光寺は藤寺として有名なのだった。 すると「そんな大層なもん、ありませんがな。」と再び笑う。 「この辺は昔から湿地帯で藤に合ったんでしょうな、亀戸天神とおんなじで。」とあっさり。 言葉遣いが正確に思い出せないのが残念だが、とても歯切れがいい話し方で「江戸っ子」のイメージだったがどうなのだろう。 帰りにお寺に咲く花の写真で作った絵葉書を3枚頂いた。 東京に来てから、私もたくさんのお寺や神社を回ったが、その中でも一番感じのいいお寺だった。 日も良かったのだろう、雨上がりの陽射しが眩しい午後。 閉まっていた正門でかえって一気に開けた木々や花の印象も鮮やかだった。 涼しげな単のご住職(たぶん)も好もしかった。 後日所用で亀戸に行く用事があり、ご住職の言葉を思い出して亀戸天神にも寄ったが、藤棚よりも池にいる亀の多さに驚いた。 「なんでこんなに亀がいるの?」 「亀戸だからでしょ。」 「じゃあ(隣り駅の)錦糸町には錦鯉がいっぱいいるのかなあ。」 「『錦』糸町だから?」 おそらく初めて亀戸天神を訪れた人が誰でもするような会話をして帰ってきたが、これもまた楽しかった。 ★円光寺 台東区根岸3−11−4 ★今日の写真。 「緑に埋もれた円光寺」と 「色鮮やかな彼岸花」。 (2008年10月25日の日記) |
| 9月16日 法恩寺 〜平蔵の初恋 |
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鬼平こと長谷川平蔵の青春の思い出に満ちた場所として有名な本所界隈にある法恩寺、私はJR総武線錦糸町駅北口からが行きやすい。 上京以来、かなりの数の寺社を巡り歩いたつもりだが、これまで訪れた中で一番頂いた由来書が立派だったのが今回の法恩寺。 二つ折りにしたA3サイズの厚手の光沢のある豪華版で、カラー写真が満載、「池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の登場人物である鬼平や左馬之助は法恩寺の大屋根を見ながら高杉道場へ通ったということです。」と誇らしげな記述が微笑ましい。 「大屋根」とあったので、かなり大きなお寺を期待して行ったのだが、震災・戦災によって焼失したため、再建されたのが現代の姿とのことで意外と小さい。 (日本武道館をイメージして行った私が悪い、笑)。 法恩寺は太田道灌が長禄2年(1458年)に江戸城を築くに当たり、城内鎮護の祈願所として鬼門である丑寅の方角に建立されたのがおこりとのこと。 道灌ゆかりの記念碑や稲荷神社もあって楽しいが、一方で納骨堂である「妙元廟」など真新しい物が大きくて、鬼平のイメージとそぐわないのが残念だった。 この法恩寺を出て大横川親水公園を南下すれば、旧平蔵邸に設定された入江丁や公園の南端に移された時の鐘などを見ることができる・・・、のだがこの日は迷った、とにかく迷った。 1人で知らない土地へ行く時は迷うのがお約束の私だが、それにしてもひどい迷い方をしたのは古地図とパソコンからプリントした地図の方角が90度違っていたからで、浅草から両国のあたりをうろうろ歩き回ったが、おかげで予定外?だった春慶寺など見つけることもできたし、ついでに大黒屋で天丼食べたり梅園に寄ってあんみつを食べたりお土産に舟和のあんこ玉買ったりと楽しめた。 (大黒屋の天丼はタレが濃くて大好き、池波氏お勧めの中清はちょっと物足りない気がする・・・。) 帰りに夫を呼び出して両国でちゃんこ鍋でも、と思ったけれど、何故か不在(笑)でとぼとぼ帰った。 今回おもしろかったのが三ツ目通りと四ツ目通り。 なんでそんな名前が?と思ったら大横川親水公園で日向ぼっこをしていたおじいさんが「碁に関係ある」ことを教えてくれた。 碁に関係あると言われても、何がどう関係あるのか今度行ったら調べてみたい。 さて、青春時代を本所で過ごした長谷川平蔵、「本所・桜屋敷」で当時の淡い恋の思い出が過ぎた年月の残酷さ、初恋の相手と思いもかけない形で再会する。 初読したのは中学生の頃。 きっと改心したおふさと左馬之助が結ばれてハッピーエンドになるだろう、などと夢見ていた少女漫画や少年少女世界の文学全集に埋もれていた女子中学生を打ちのめしたのが、この「本所・桜屋敷」だった。 実は「唖の十蔵」はあまり印象に残っておらず、次に読んだ時まで第1話が「本所・桜屋敷」だとばかり思っていた。 それほど平蔵、左馬之助とおふさの再会が衝撃的だったのだろう。 同時に小説の中に始めて「現実の理不尽さ」を見出したのではなかったろうか。 テレビでも鬼平シリーズを何作か見たが、中でもこの「本所・桜屋敷」のおふさ役萬田久子さんは本当に綺麗だった。 原作のおふさ以上に哀しい美しさを漂わせていたように思う。 本来ならば美しくあってはならないのだろうが・・・。 ★今日の写真。 大屋根と言うほど大きい気はしません。→「こちら」。 (2008年9月16日の日記) |
| 8月5日 池波正太郎記念文庫 |
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以前働いていた職場で、必要があってよく合羽橋や浅草橋に買い物に行った。 特に入谷駅で降りて「恐れ入谷の」鬼子母神に寄り道し、信号を渡って合羽橋道具街を冷やかしながらの買い物はいつも楽しみだった。 (仕事さぼれる?し、交通費は出るし)。 海外の旅行者が群がる食品サンプルのお店で、私も空中に浮かんだフォークに巻きつけたパスタや本物そっくりのパフェに目を丸くしたり。 まるでキスをせがむように目を閉じて口を突き出したカッパの置物に心の中で投げキッスしたり(笑)。 あれから数年たったが、今でも入谷は私のお気に入りの散歩コース。 さらに河童の手のミイラのある曹源寺を覘いてかっぱのぎーちゃんに挨拶、そして「池波正太郎記念文庫」に立ち寄るのがお約束となった。 西浅草の台東区生涯学習センター1階。 私は乗ったことがないけれど、台東区巡回バス南の北めぐりんに乗って「生涯学習センター北」で降りればすぐらしい。 建物に入ると、まず目の前に鎮座している豪華な熊手に目を惹かれる。 右に入れば台東区立中央図書館、左に入れば池波正太郎記念文庫である。 台東区にゆかりの作家は池波氏以外にも多く、中央図書館にも池波作品の他、瀬戸内寂聴、沢村貞子など資料が充実しています。 また、浅草ならではの大衆文化関連の資料も2階にどっさり。 入ってしまうとなかなか出られない図書館のひとつ(笑)。 さて、記念文庫だが、やはり一番好きなのは復元された書斎の一部。 セピア色にまとめられた中、どっしりした机や書きかけの原稿や読みかけの本や。 作家としての池波氏の匂い、そして生活人としての池波氏の匂いに包み込まれたような空間。 初めてエッセイで知った資料や写真を実際に目にした時は、身震いしてしまった。 池波氏は間違いなくここで生きておられたんだ、ここで「鬼平犯科帳」や「真田太平記」を書かれたんだといった感動が押し寄せて来る感じ。 他にも読むのが難しい?原稿や可愛い絵や年表やずらりと並んだ作品集を眺めていると、あっという間に2時間はたってしまう。 長野県上田市にある「池波正太郎真田太平記館」と提携して、そちらで発行されている資料が読めるのも楽しい。 ちょっと笑ってしまったのが池波氏のイラストを使用した栞や手ぬぐい、ブックカバーなどのグッズ販売。 ついつい私も手が出てしまったけれど、池波氏はどう思っているんだろう。 「俺の絵をこんなんに使うなよ」なんて苦笑いされていそうな気がする。 そういえばこの近く(台東区立待乳山聖天公園)に池波氏の生誕地碑が建立された。→「台東区ホームページ」 今度足を伸ばしてみよう。 ★今日の写真。→「記念文庫入り口」。 バーミヤンの看板の方が目立ってます(笑)。 (2008年8月5日の日記) |
| 6月30日 塩入土手から板橋へ 〜総泉寺 |
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千住大橋の袂から浅草側に歩き始めてすぐ左折すると、そこから汐入(塩入)土手が始まる。 古地図には「山王社」と記された日枝神社(虫歯の痛みに耐えかねて切腹した藩士清兵衛を祀る祠がある)を越えてさらに進むと、大治郎が住んでいた真崎稲荷明神社(現石浜神社)が見えてくる。 その先白鬚橋の明治通りとぶつかるあたりが、かつて総泉寺があった場所だろうか。 その近くで畑仕事をしていた百姓が住んでいた家を借りうけて、彦次郎が住んでいる。 前回も書いたが、大治郎宅とは本当に目と鼻の先だ。 さらに総泉寺は「鬼平犯科帳」にも登場する。 区役所資料室で見た資料によると、総泉寺の開基は前回行った石浜神社にもゆかりのある石浜城主千葉之介守胤。 曹洞宗の寺院で正式には妙亀山総泉寺と号す。 山号「妙亀」は梅若塚や木母寺の梅若伝説に登場する、梅若丸の母妙亀からつけられた。 妙亀は、人買いに連れ去られ、この地で非業の死を遂げた息子梅若丸を弔うために尼となり、庵を結んで寺のはじめをなしたという伝承によるのだそうだ。 その総泉寺が、なぜ板橋区に移ったかというと、大正12年の関東大震災で焼失したため。 昭和3年に板橋区小豆沢に元々あった大善寺と合寺され、昭和47年に本堂が新築された。 最寄り駅は都営三田線志村坂上。 マクドナルドの方に向かって中山道を5分くらい歩くと、右手に坂があってその上に見えてくる。 この駅周辺にはもうひとつ、都内では西ヶ原と2つだけが完全な形で残っていると言われる志村一里塚がある。 これがまた見事な榎で、暑い日など木の下で一休みしたら気持ちいいだろうなあと思ってしまう。 管理も行き届いていて、歩道がよけるように作られているのもおもしろいが、もちろん中に立ち入ることはできない。 さて坂を上って門をくぐると、「広いなあ」というのが第一印象。 最近見た都内のお寺の中ではだんとつに広い(笑)。 とにかく目を引くのは正面の本堂の石段に彫られた亀の彫刻。 工事中で囲いがされているので近づいてじっくり見られないのが残念だが、梅若丸の母妙亀にちなんでいるのか、5匹の亀が愛らしい。 あとおもしろかったのが、可愛い亀の上に七福神が彫られた玉があって、それがくるくる回るもの。 しばらくしゃがんで休みながら、何度も回して遊んだ。 さて中山道、板橋区役所に行ったついでに板橋宿(商店街?)にも寄って、その楽しさに中山道にも興味が出てきたおだが、私の記憶では「中仙道」だったような気がする。 いつから「中山道」になったのだろうか、今度調べてみたい。 ★今日の写真。 板橋の総泉寺の本堂石段の「亀の彫刻」と「玉を乗 せてる亀」、何から何まで亀尽くし? (2008年6月30日の日記)
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| 5月30日 秋山大治郎の道場 〜真崎稲荷明神社 |
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以前秋山小兵衛宅が設定されたあたり、鐘ヶ淵界隈を歩いた時に、真崎稲荷明神社も探したのだけど、見つけることができなかった。 それもそのはず、現在真崎稲荷明神社は石浜神社に合祀されていた。 つまり、石浜神社内に真崎稲荷明神社が共に祀られているのである。 常磐線南千住駅で降りる。 地図で見ると泪橋経由で行くのが近そうだが、北口を出て交番で聞くと、モスバーガー、LaLaテラス南千住(TSUTAYAやスーパー、レストランなどが入っている商業施設)の前を通って「とちのき通り」をまっすぐ進む方が近いと教わり、その通りに行ってみる。 きちんと整備されていて、ツツジが満開でとても綺麗。 都立汐入公園に突き当たったら右折してまっすぐ10分ほど歩くと右手に石浜神社が見えてくる。 石浜神社本殿の右側に真崎稲荷神社があるが、額束には「真先稲荷神社」となっている。 「石濱神社のしおり(有料100円)」や「石浜神社社誌(石浜図書館蔵)」によると、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が宮柱を築き、神璽を奉納したことが始まりとされる。 この宝珠は家伝の宝にて身に帯びて戦に出ると、常に先駆けの功名を得ることができ、これに謝して「真先(真っ先に武功を上げるから)明神」としたのだそうだ。 しおりの表紙に石浜神社と真崎稲荷神社の鳥居が仲良く並んでいる風景を見ることができるが、震災後の都市計画により、社殿の一部を著しく削減、1926年(大正15年)6月12日に時の所轄庁の許可の下、石浜神社に合併移転した。 ちなみに「真崎」となったのは江戸時代半ば頃で、伊豆国伊沢郡真崎村から取ったものらしい。 隅田川をはさんで石浜(真崎稲荷)神社、木母寺、白鬚神社がきれいな二等辺三角形を作っており、おはるが大治郎を小舟に乗せて、家まで送る風景が実際の感覚として浮かんでくる。 この近く、とは言えないが日枝神社のあるあたりがかつて「汐入(塩入)土手」と呼ばれ、梅安シリーズの彦次郎の家があるあたりとなる。 梅安の時代は秋山小兵衛全盛期よりかなり後に始まるが、少しだけリンクしている部分もないわけではないので、秋山小兵衛や大治郎と、梅安、彦次郎がすれ違ったこともあるかもしれない。 大治郎はともかく、好々爺の小兵衛や物静かな医者梅安、平凡な楊枝作りの彦次郎は、互いの常人にはない裏の顔に気づいたかどうか、想像するのもまた楽しい。 ★今日の写真。 石浜神社本殿の向かって右側にある「真崎稲荷神社」と「額束 」。 「真先」と書いてあるのが読める。 (2008年5月30日の日記)
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